マルフォイがあくびをしたのは、きょうで既に七回目だった。 彼は机の上で頬杖をつき、わたしの羊皮紙を眺めながら、羽ペンを手の中でくるりくるりと廻しているが、あくびの際はその動作がぴたりと止むのだった。 「眠そうだね」 「べつに」 「クラッブとゴイルは来ないの?」 「あいつらは談話室にいたほうがお菓子にありつけるから」 ふうん、とくちびるを尖らせて、レポートに集中しているふうを装いながら、わたしは何気なく自分の髪の気になるところを指で触った。部屋に二人きりだからといって、なにもドキドキする必要はない。マルフォイの部屋にいるのだけれど、クラッブとゴイルはここに来ないそうだけれど、だからといって、緊張したり、自分の容姿を気にしたりするのは、なんとも愚かしいことだ。 わたしがこんなことを気にしていると知ったら、マルフォイはたちまちにわたしを追い出すだろう。 マルフォイはわたしのことなんて意識していないのだから──あくびが何度も出てしまうほどに。 わたしはマルフォイが俯いている隙に、さっと部屋の中を見渡した。 やっぱり、女子の寮とは間取りが違うし、マルフォイの部屋はとても広い。それに意外なほどに部屋は簡素だ。クリーム色のベッド、勉強机、お茶のテーブル、黒っぽいクルミ材のクロゼットの扉。 豪奢な本棚や王様のような椅子はなかった。ただ勉強机の上に擦り切れた古い小さな本が一冊あって、ぴんと立った羽ペンがあって、二種類のインク壺があった。 それから、クロゼットの前に、四つも同じ靴の箱が積んであった。きっといま履いている革靴と同じものだろう。なぜあれだけ出しっぱなしにしているのだろう、クロゼットにしまっちゃえばいいのに。 「なに人の部屋できょろきょろしてるんだ?」 「いやあ、結構片付いてるなあと思って」 「おまえの部屋は散らかっていそうだな。くだらない本、貧相だが量だけはある衣類、食い散らかした菓子」 「失礼だなあ。見たことないくせに」 「見たことなくとも大体わかるもんなんだ。それよりまだまだ終わらなさそうだな」 「あと一時間もあれば書き終わるって」 「そうか」 マルフォイはまたあくびをして、椅子から立ち上がった。 「じゃあ一時間したら云ってくれ。眠りは浅いほうだから」 「は?」 「すこし目をつむってる、なんだか目がジンジンしてきた。目を閉じていれば治る」 「え、ちょっと!寝ないでよ!」 「眠らない、目を、つむるだけだ」 「いま眠りは浅いとか言ってたじゃんか、めちゃくちゃ寝る気のくせに!」 マルフォイはわたしを無視して、ベッドにわたしに背を向ける形で横になった。 顔は、肩と影が遮っているが、細い耳の下へ繋がる輪郭と、痩せた頬のライン越しには、影が覆っていた。 なんてやつだ、女の子が部屋に来ているというのに、あくびどころか眠りまで始めるとは。 ここまで意識されていないことに腹が立つような、悲しいような。やっぱりわたしのことなんて、女子とも認識してないのだろうな。「部屋でやれよ。ぼくの部屋がいい」と云われたときは、少なからず緊張感を覚えたけれど、そんな自分にさえ腹が立つ。 そもそも恋人でもないわたしを、部屋に呼ぶということ自体おかしいのだ。 レポートを連番で提出しなければならず、一刻も早くわたしの仕上がりをほしいというのはわかるけれど。 だいたいマルフォイはわたしのレポートの題材を真似するつもりに違いない。「こんな低俗な授業に時間は割いてられないね」と云っていた変身学だし、「おまえよりいいレポートが書ける。添削して、付け加えて、それから組み換えるだけだ」とにやりと笑っていた。なんてやつ、許せない。 羊皮紙に向かって煮え滾らせた怒りが沸点に到達したとき、わたしはばっと振り返った。 わたしがこんなにも怒り狂っているというのに、マルフォイはすやすやと眠りこけているのだ。 わたしはそっと立ちあがった。すこし気恥ずかしい気がしたが、マルフォイは寝ているのだ、恐れることはない。自分を奮い立たせて、ゆっくり音を立てないようマルフォイに近付いていく。 クリーム色の絹のシーツの掛ったベッド、同じ色の枕に頬を載せて、マルフォイの目を閉じた顔がそこにはあった。なめらかなプラチナブロンドの髪が、シーツの上に幾すじか広がっている。白い顔、やわらかな薄茶色の眉と睫毛。 ………。 わたしはしばらく、その姿に見とれた。 マルフォイって、こんな顔だったんだ。いっつも、へらへらしてるか、いらいらしてるか、どちらかだったけれど、強張りのほどけた顔は、やさしくて、本当に綺麗だった、白ばらのようだった、天使だった。 その顔の造形には、どきっとさせる圧倒の類のものじゃなくて、ただただ目を奪い、ぼんやりとさせる、引き付ける力があった。なんという顔、なんというくちびる、なんという肌……。 それともこんなにポカンとしてしまうのは、わたしがマルフォイのことを好きだからだろうか? さきほど胸をぐっと掴んでいた怒りは、たちまちの上にため息となって、体から出ていった。 寝顔に落書きしてやるつもりだったけれど、だめだ。この顔にそんなことはできない。いつものマルフォイになら躊躇いなくできるけれど、このマルフォイは駄目だ。寝顔が可愛すぎる。 わたしは体をこごめて、顔を近づけて、まじまじとマルフォイを見詰めた。まるで美術館で鑑賞するときのように、この特別な美術品を、一生網膜に焼き付けておけるように。 ……ほんと、きれいな顔してる。 薄くて神経質そうだと思っていたくちびるが、いま、わたしの顔から五十センチ先にある。 顔立ちは美女のようだけれども、口許のあたりに柔らかさがなくて、それが彼を男だとはっきり示している。中性的で、きれいで、上品で…… とても杖は向けられないけれど、くちびるで触れてみたい、と思うほど、可愛いな。 無防備だし。 ………。 いやいや、それはさすがにしませんけど。 だってマルフォイが起きてしまったら……わたしの命はないものと考えたほうがいい。マルフォイのことだから、わたしを呪い殺すなんて躊躇いなくやってのけるはずだ。 それにわたし、キスしたことないし。 ファーストキスが、誰にも知られずこっそりなんて、むなしすぎる。 その上、マルフォイはわたしのことなんて、好きじゃないのだから。 マルフォイに対して失礼な行為だ。わたしが好きだから、わたしがキスしたいから、眠っているのをいいことに、マルフォイのくちびるを奪うだなんて。 ………………。 じゃ、なんでわたしここにいるの? 最初から“ちょっとキスできそうならやっちゃおうかな”と考えていたのでは? ………そうだ、できることならやっちゃおうと思っていたのだ。たぶん。 わたし、キスしたことないけど、どうせ口と口をそーっとくっ付ければいいだけだ。簡単なことだ。 好きな人にファーストキスできるんだからいいじゃないか。マルフォイはどうせわたしのことなんて好きじゃない、だから。マルフォイが目覚めてるときにわたしとキスしてくれるわけがないのだから。 だったら眠ってるマルフォイのくちびるを奪えばいい。 それにマルフォイはわたしに失礼な態度をとった、だからわたしもマルフォイに失礼なことをしていい。 つまりくちびるを奪ってもいい。 マルフォイは眠っている。 これは秘密だ。誰にも云わない、黙っていればばれない。 一瞬キスして、すぐに顔を離せばいい。 わたしは、ぐいっと顔を近づけた。 なにか、青リンゴのような、ごく幽かな淡い匂いがした。その香は、気まぐれな風のように、すぐに消えた。 心臓がバクバクして、口から出てきそうだと思った。わたしは目を見開き、呼吸を乱れさせ、マルフォイにジワリジワリと近付いているのだけれど、傍から見ればだいぶ怖い顔をしているに違いない。 ベッドに手を置いたら軋んで目を覚ましてしまうだろう。だから、顔を近付けるために、全力で腹筋をつかって体をこごめていかなければならない。 あと十センチ、と目の前にあるくちびるが、とても遠く感じられた。腹筋の事情で、これ以上顔を近づけるのは至難の業だ。 息を止めて、ぐっと半身をのけぞらせ、ベッドに体が触れないよう細心の注意を払っているのだが、そのままの状態を維持するのはたいへんつらい。 これはいったん、退却しよう。 わたしは、床に尻もちをついて、はあーと大きく深呼吸した。 キスひとつでこんなにつらいなんて。やっぱりわたしには向いてないのかもしれないなぁ……。 わたしは目をつむり、天井を仰ぐようにして、疲れたーと地べたにへたれ込んでいたのだけれど、やがて首を下げてマルフォイに目をやった。 その瞬間わたしの心臓はこわばり、ぎゅんっと握りしめられたように縮みあがった。 「なにやってるんだ?」 目をぱっちりさせたマルフォイが、わたしの顔を凝視していたからだ。 わたしは無表情で……驚きと恐怖のあまり表情がすっ飛んで行ったのだけど……マルフォイを見詰めた。 この角度で見ると、マルフォイの瞳は薄く暗いブルーのように見えた。 どこで起きてたんだろう……、まさかずっと……と思うと心臓だけじゃなく全身が縮みあがる気がしたが、たぶん、さっきのため息で起きたんだろう、そう思いたい。つまりマルフォイが目を覚ましたのは、わたしが顔を近づけているときではない、そのあとだ。 「ま、マルフォイ……おはよう、よく眠れた?べつにイタズラしようと思ったんじゃないからね、虫がね、こっちに飛んできたもんだから、マルフォイが刺されたら大変と思って、それで」 「………レポートは?」 マルフォイの瞳はまだぱっちりしていた。ビー玉のような瞳が、真っ直ぐにわたしを見詰めていた。まだ寝ぼけているのかもしれない。 「え、まだだけど……」 「ふうん」 軽い身のこなしで、マルフォイは上体を起こし、時計に目をやった。 「起きるの?」 「起きる」 ベッドを下りてこちらを見たマルフォイは、さっきよりもずっと顔色がよかった。一瞬しか寝ていないのに現金なやつだ。 「もう少し寝ればいいのに」 「寝顔に妙なことをされては堪らないからな」 どきっとした瞬間に、自分の顔が思い切り感情を露わにしていることに気がついた。 マルフォイはそんなわたしを意味ありげに見詰めて、なぜかにやりと笑った。 にやりと笑うなんて……どういう意味だろう?寝顔に妙なことって、キスしようとしていたのがばれたとか?いやいやいや。そんなことはないと思いたい。寝顔に落書きされるとでも思ったのだろうか?少なくとも、なにかをされると思ったらしい。本当のことがバレていたらどうしよう。 じわ……と妙な汗が衣服の下に滲むのを感じる。 バレていませんように。バレていないだろう。バレていたらマルフォイの性格上、わたしはただじゃ済まないだろうし。顔に落書き程度なら、未遂に済んだのだから、にやりと笑ったわけもわかる。でも、キスしようとしたのがバレてたら、マルフォイは激怒するに違いない。きっとそうだ。でも、確信は持てない。持てっこない。 たぶん考え込んでいる間に、二、三秒は経過していたように思う。 わたしは、思い切りマルフォイから目をそらして、何の気なしを装ってスカートを払い、椅子に向かった。 とにかく、わたしはレポートをやらなくちゃ。バレていないし、マルフォイだってキスされそうだったと疑いはしても確信はしないだろう。マルフォイは目を閉じていたし、せいぜい顔はあと十センチのところまでしか近付いていない。十センチって結構近いな。とにかく、近付いてくる気配はしても、キスされそうだなんて、思いもよらないことだ。 「だから、何にもしてないって。疑り深いなあ」 わたしは無かったことにすべく、明るく努めた。もしかしたらマルフォイはいま、わたしに探りを入れているのかもしれない。“こいつ、もしかしてキスしようとしてたんじゃないか?”って。もしそうなら、わたしは迂闊な反応はできない。 「何にもしてない、か」 マルフォイをちらと見ると、彼は未だににやにやと笑って、わたしの向かっている机に手をついた。 「たしかにぼくは、何もされていない。だが、惜しかったな。あと数センチだったのに」 …………。 も……もうだめだ。 完全にバレている。すみません。顔から血の気が引いたあとは、すぐに沸騰しそうなくらい熱くなった。滲んでいるかに思われた汗が、完全に一筋となって、背中をすうっと伝っていった。 たぶんわたしは、とても滑稽だっただろう。青くなって赤くなって、最終的に紫の顔でもしているんじゃないだろうか。頭のあたりはくらくらして、血が足りていないのに、頬は燃えるように熱い。自制心がきかず、すっかり狼狽しきったわたしは、羊皮紙の上に視線を泳がせていた。 机についた手に体重をかけて寄りかかっているマルフォイの声が、へたれ込むように項垂れたわたしの頭上から聞こえてくる。 うっ……ごめんなさい……出来心だったんです……。 「おい、いつまで“何もしていない”ままなんだ?」 「うっ、はいっ」 「さっさとレポート終わらせろよ」 「はい……」 もはや無駄口をたたいて反抗することはできない。 だけど、こんなことばれたら、マルフォイは絶対怒り狂うと思っていたのに。 心なしか楽しそうなのは、いったいなぜ? (なんでそんなにニヤニヤしてるの!?) とにかく、レポートはまだまだ終わらない。 |