きょうはわたしの人生で最も情緒不安定な一日だったのだ。
わたしは、途方に暮れ、ある耐えがたい苦痛のために、壁だらけの路地に迷子になったような不安感で胸が詰まりそうだった。
明瞭しがたい嫌悪感が、原因を解明しようとするもう一方の冷静なわたしを殺してしまった。
「泣くな」
顔を上げると、マルフォイがわたしの顔を睨みつけていた。
彼の華奢な骨組みだが長い手、がわたしの手首をぐうっと掴んで、それは、血のめぐりをはっきりと止めているような感じがした。
「たかが失恋で……ばかばかしい」
マルフォイはふんと鼻を鳴らして、わたしの手首をぽいっと放した。わたしの手は、そのままぶらんと放り出されてスカートのひだの間にうずまった。
「あんたに、なにがわかるの?わたしがなんで泣いてるかなんて、なんであんたにわかるの。あっち行ってよ」
失恋という言葉は、わたしの靄がかった奇妙な精神に、大きな波紋を落とした。
失恋。
なんて、なんて、なんてことだろう。わたしは失恋してしまったのだろうか?
「おまえのような女は、ばかで大変だな」
マルフォイはぼんやりした抑揚のない声色でそう云った。
彼の顔は暗やみの中に融け込んで、左の頬と瞳と眉のあたりだけを、斜めに差し込む月光が照らしている。その月光は青白く、マルフォイの僅かに見えるその顔の部分から、血色という色味を洗いきっていた。彼の顔は銀色に見えた。


「失恋……」
失恋、なんてひどい響きの言葉だろう……わたしは失恋したのだ。まだ恋をしている。まだわたしは恋をしている、それなのにどうして失恋なんて言葉が現状にあてはめられるのだろう。
わたしの恋はまだ生きているのに、一握の可能性も希望も見いだせない失恋という表現が、どうしてこんなにしっくりくるのだろう……。


「………顔!」
「え?なに?」
「顔拭けよ、くしゃくしゃだ。一応女だろう、身だしなみに気をつけるべきだな」
マルフォイは癇癪を起こしたようにいらいらして云う。うるさいし変なやつだ。
云われたとおりポケットに手を突っ込んでハンカチを探すも、指先に触れるのはポケットの生地のざらざらした感触だけだった。
「忘れた」
「………。」
暗やみの中でも、マルフォイがいかにうんざりした顔をしているか、見えるようだった。
マルフォイは浅いため息をつき、わたしに、懐から取り出した四角くて平べったいそれ──を付きだした。手を伸ばして、指で触れるまで、それがハンカチだとは気がつかなかった。まさかマルフォイがわたしにハンカチを貸してくれるだなんて。
「どういう風の吹き回し?」
「……」
遠慮なくその絹の感触を顔に押し付けて、じわじわと滲み出る涙と、つんと刺激する鼻孔がやわらぐのをしばらく待つ。
マルフォイの衣類の匂いか、シャボンの香がした。

「見苦しい。人前で嗚咽するとはね。考えられない醜態だ。しかもその理由がまた……」
「あんたは、寂しい人生を送ってきてるんだね。でもきっとそのうち、わたしの気持がわかるようになるよ。そのときわたしのことを思い出して、ああ、あのとき暴言ばかり云ってすまなかったな……と感じてくれればいいよ」
「そんな日が来るとはとても思えないが。ぼくはぼくの人生に満足している。おまえはそうじゃないんだろう?だからそんなに泣いているんだ。いままでの生活のなにかが違えば失恋せずに済んだと考えているんじゃないのか」
「わたしだって昨日までは自分の人生に満足してましたよ。でもあんたはこんな気持になったことないでしょ。わたしはあんたより経験しているの、わかる?」
「おまえを見ていると頭がおかしくなる」
吐き棄てるようにマルフォイが云う。

それはこっちのせりふだ、と内心強く思った。言葉に出してもよかったが、そうするとますます頭がおかしくなることは目に見えている。いつもいつも、まるで犬と猫のように反発しあっているのだ。
もうすこしだけ、仲よくなれたらいいのに……といつも思っているのに。
本当は、ふつうにお話したいのに……どうしてこうなってしまうのかわからない。馬が合わないとは、このことなのだろう。


「ハンカチ洗って返すね」
「あたりまえだ」
すん、と鼻をすすって、もう一度ハンカチで、涙でぱりぱりになった頬を拭う。
テラスの手すりにもたれかかるのをやめて、スカートを払うと、しゃがみこんで泣いていた自分よりは一歩、気持的に前進できたと思った。
わたし、失恋したんだ。
胸がえぐられるように痛い。

部屋に戻ってもう一度整理しよう、ここにはマルフォイがいるし。
まあお蔭で気が紛れたけれど。
ていうか、こいつ何しに来たんだろう。


マルフォイはまだ手すりにもたれて、わたしを眺めている。
東の夜空から舞い込んだ夜風が、マルフォイの髪のひとすじをさらさらとなびかせた。銀糸にすこしの月光を含ませた、冷たいプラチナブロンド。そのやわらかさとなめらかさから、ハンカチと同じ、シャボンの香が匂い立つ。
複雑な濃淡の陰影が、彼の尖った顎の華奢さを描いている。
長い首、上品な痩身、見るたびに伸びゆく背丈。月明かりのもとで見た灰色の瞳は、猫のロシアンブルーを彷彿させた。気だるげな、気取った無表情をしている。
いつもの意地悪では、ない顔。
一歩歩いて振り向くと、マルフォイは肩をすくめた。

「………ありがとう」
「どういたしまして」

さらさら、
月光を束ねたような髪が揺れている。まぶしくて目を細めたら、涙もきれいに霞んでいった。