ミスター・マルフォイが結婚したというので、わたしは、心底驚かされた。
彼はホグワーツ時代、一学年先輩だった。歳は違えども彼はわたしのことをかわいがってくれていたように思う。
「妹なんかいらないが、もしいたらきみのような感じだったんだろうと思うよ」と彼は云っていた。でもわたしは、兄のようには思わなかった。
心ひそかに、彼のほうこそ弟のようだとわたしは思っていたものだ。
その彼が結婚したと云う。
「しかも結婚してもう二週間にはなる」
と彼が付け加えたので、わたしは、ますます顔を強張らせた。彼はわたしの驚きなど意にも介さず、クロアサンを食べつづけた。
「どうしてすぐ云ってくれなかったんですか?!毎日来てくれてたのに!」
「云ったところでその驚き顔が出迎えてくれるだけだろ。それに、朝刊すら読まないのかと呆れていたので放っておいたんだ。小さいが記事になったのに。結婚式の写真も載っている」
わたしは、コーヒー茶わんの湯気ごしにあるミスター・マルフォイの顔を、まだ驚きでいっぱいの胸中で眺めた。
彼は、涼しい顔でコーヒーを啜っている。長い付き合いなのでわかるけれど、彼は内心してやったりと思っているだろう。
わたしの驚く顔を見たいがために、二週間も黙っていたことは間違いない。


平日の朝きっかり八時に、ミスター・マルフォイはわたしのカフェーで朝食を取っていく。
初めて彼が店にやって来たのは、昨年の春だった。
わたしの姿を見て、彼は驚きつつも呆れたような顔を見せた。
“この近くに職場があるんだ”と云って、それからは毎朝、うちのクロアサンと果物とコーヒーを胃に入れていく。
“特別うまいわけでもないけど、まずくもないし他に店がない”とも彼は云った。相変わらずだ。


「新婚ほやほやなんですね。お幸せそうで羨ましいです」
「べつにほやほやで湯気が立っているわけじゃない。こうして毎日決まった時間に朝食をとっているのだから、ぼくが多忙だということはよくわかるだろ。コーヒーをもう一杯くれ。もうすこし暇があれば“お幸せそう”でいられると思うんだがな」
細い端正な顔に湯気をくゆらせて、彼はコーヒーの香を吸い込んだ。
「お見合い結婚ですか?先輩の家、由緒正しいから」
「見合いじゃない。先方の家柄も由緒正しいから、誰も反対する者もなかった」
すこし腕の下の筋肉が強張る感じがした。顔には出なかったけれど、わたしはとても驚いた。ミスター・マルフォイが、あの先輩が、恋愛結婚をしただなんて。とても想像がつかない。
「じゃ、ますますお幸せなんですね。恋人と結婚なんて」
「それはどうも。」
すこしの沈黙があった。彼は静かにコーヒーを飲み、オレンジを一房食べた。
「妻はきみのことをよく知っているよ」
「……えっ、もしかしてホグワーツの……」
「ああ」
在学中、彼のかたわらをよく占領していた女生徒の姿を、ぼんやりと頭に思い浮かべる。顔はよく思い出せないが、とても可愛い人だった。わたしは彼女と喋ったことがなかった。彼女がわたしのことを嫌っていたからだ。
嫌われる理由は実際のわたしとミスター・マルフォイにはひとつもなかったのだけど、わたしには彼女の気持がわかるような気がした。
「えっと……ミス・パーキンソンという美人さんですか?」
「パーキンソンじゃない。彼女はいまもいい友人だ」
「………」
わたしが彼と接点のある生徒を一生懸命考えているのを、彼はにやりと笑って眺めていた。
「妻はきみのことを“とても鈍感でおっとりした人”と云っていたよ。おっとりかどうかは置いといて、鈍感というのは同感だな。きみ以上に鈍感な人物をぼくは知らない」
「なんですか、一体。鈍感鈍感って、昔からよく云いますけど、わたし先輩からしか云われたことないですよ?」
「みんな気遣って口にしなかったんだろう。デブにデブとは云わないだろ。そういうことだ。クラッブもゴイルも、“あの子すげー鈍感だよな”と云っていたものだ」
わたしが少なからず愕然としているのが、とても愉快だったのだろう。彼が悪魔じみて見える。
こうしているとまるでスリザリンの談話室、あの柔らかい長椅子に坐って会話していたときのようだ。
「わたしは自分ではそうは思いませんけどね」
「そういうところも含めて鈍感なんだと思うよ。人の気持にまったく気付かなかったり、事態を予測できなかったりしただろう」
これにわたしがむっとすると、彼は知らんぷりして、コーヒーを飲んだ。口が過ぎても、彼は絶対に謝らないのだ。困ったお人だ。
「きみはまったく結婚なんて頭にないんだろうな。彼氏もいないのか」
「それ、セクハラですよ、先輩」
「固いこと云うな。ぼくときみとの仲じゃあないか」
「いません……出会いがないんですもん。誰かいい人紹介して下さいよ」
「ゴイルはまだ独身だぞ」
「ゴイル先輩は紹介されるまでもなく顔馴染みですよ。まあでも、いまは恋人とか、そういうのは考えられないです。お店が当分は恋人ですね」
わたしがしみじみと云うと、彼はくちびるの端で笑って、すぐに無表情になった。気取ったふうに、眉だけはついと吊り上げられていた。
「それは残念だな。ゴイルはきみの鈍感なところも可愛いってよく云っていたのに」
「あんまり嬉しくないです。わたし、鋭いところもありますよ?」
「ない。絶対ない」
簡単に断言されてしまったので、わたしは口ごもった。
「それにしても」と彼はオレンジを剥いた指をナプキンで拭った。「きみが本当に店を構えているとはね。夢が実現したというわけだな」
「それなりに大変ですけどね。お客も夜しか来ませんし。カフェーがやりたかったけど、バーに鞍替えしちゃおうかなって思うときもあります」
「それは困るな。カフェーがなくなったら、ぼくは毎日空腹を抱えなければならない」
「もしバーになったら、先輩のために八時だけ開店しますよ」
「ふうん。しばらくぼくの腹は安泰そうでよかったよ」
わたしたちは小さく笑った。
「覚えていてくれたんですね。わたしが店を持ちたいと云っていたのを」
「きみが進路の話が出たとき、ぼくに“おしゃれで可愛い店を持ちたい”と相談しただろう。ぼくは、本当にきみが可哀相になったよ。しかし実際にこうして経営者になって、それなりに固定客もいる。まだ若いのにな。味がもっとよければなおいいんだが」
「ありがとうございます。誰もわたしが本気だって取り合ってくれなかったのに、先輩だけはアドバイスしてくれましたね。“まず金をためて、どっか不動産に相談して、役場で手続きしたら店を持てる、簡単なことだ”って。味だってそれなりに悪くはないでしょ?」
「まだ改善の余地はあるけどな。きみは舌まで鈍いから」
「ひどすぎますよ」
すっかり話は弾んだかに思われた。彼は最後の一房を食べ、ナプキンで口元と指を拭ってから、すっかり冷めたコーヒーカップに手を伸ばす。そろそろ、ここを出ていかれる時間だ。
「先輩、けっきょく奥さまってどなたなんですか?」
「グリーングラス家の次女。きみと同級生だろう」
「ぐり……えっ、えっ、アストリア?!」
「ああ。姉貴とは全然気が合わないけどな。姉貴のほうだけは結婚に賛成してなかった。可愛い妹がとられたんでぼくが恨めしいみたいだ。在学中からまったく馬が合わない女だったので、それの妹と付き合うのは少し抵抗があったんだが」
「えー……アストリア……あー、びっくりした……」
アストリアはわたしと同級生で、綺麗で白百合のような女の子だった。大人しそうな容姿をしているのに気が強くて、サバサバしていて、たぶんその意外性を彼は気に入ったのだろう。わたしとは真逆の人だ……。
「でも納得いきました。アストリアなら先輩とお似合いです。美男美女夫婦ですね」
「お似合い?ぼくと妻が?へえ……皆口をそろえてそう云う」
「アストリアはしゃきっとしていて芯があっていい子ですもん。先輩は意地が悪いので、アストリアみたいな奥さんの尻に敷かれるくらいがちょうどいいです」
「客に向かってなんて店だ。尻に敷かれる気は毛頭ない。アストリアも亭主を支配下に置きたがるタイプじゃないからな」
「あはは。そうですね。でもぞっこんなのは先輩のほうでしょ?先輩のほうが惚れこんでる感じがしますもん」
彼は目を伏せて、穏やかな顔をした。
それはまるで、宗教画の聖母のような、光を浴びた優しい表情だった──わたしは彼がそんな顔をしたのを、ついぞいままで見たことがなかった。
先輩は変わったんだ。たしかに変わった。きっと結婚が彼を穏やかにしたのだ……。
不思議と胸がちくりと痛んだ。わたしは羨んでいるのだろうか。
「そう云われてみればそうかもしれない。深く考えたことがなかった。妻は理想の女性だったから」
「もう、朝からのろけですか?」
「ぼくの理想は、きみと正反対の女性だったんだ」


すうっと自分の顔から表情が消えていった。わたしはびっくりするでもなく、硬直するでもなく、彼を眺めていた……馬鹿みたいに。
たぶんとてもショックだったんだろう。一呼吸置いて心臓がどきどきしてきた。わたしと正反対の女性。わたしの正反対の女性が理想……。
「あ……そ、なんですか……でもわかる気がします、わたしが男性なら、わたしだってわたしと正反対の女性がいいですもん。美人で、頭がよくて、性格も素晴らしく、スポーツができて、それで……」


「そうじゃない」
やにわに彼は低い声を出した。
「そうじゃない。そういうことじゃない。本当にきみは……どうしようもなく……、いや、もういい」


わたしは、力の抜け切った顔が、こんどは強く強張るのを感じた。なんだろう、この感じ。不快感でいっぱいだ。
「せ……先輩、わたし、あしたはケーキを焼きます。お祝いに……。遅くなっちゃいましたけど」
「ケーキなんていらないし、きみには祝ってもらいたくない」
力強い動作で彼は立ちあがった。とても怒っているらしく、顔は青白く、瞳には軽蔑の色がありありと浮かんでいた。
「どうしてそんなこと云うんですか?わたし、本当におめでたいと──
「云っても仕方がないし、どうしようもないことだ」
「先輩、あの……」
「きみにはうんざりしたよ」
彼はわたしに、銀貨一枚押し付けると、ずんずんと扉のほうに歩いていった。
それから、わたしが呼びとめるのも聞かずに、さっさと出ていってしまった。


なぜ怒っているのだろう?こんな彼は初めて見た。さっきは、あんなに穏やかだったのに……なにか失礼なことを言ってしまったに違いない……。
いや、初めてじゃない……忘れていたけれど、前にもこんなことがあった。
あれはミスター・マルフォイが卒業する前日の晩だ。
突然彼はさっきのように怒りだして……あのときは、顔を真っ赤にしていた。
“おまえのような鈍感な女はごめんだ!”
と喚いて、ぽかんとしているわたしを置き去りにしてバルコニーを出ていった。
そう、あのときはバルコニーでおしゃべりをしていたのだ。
わたしはため息をついた。ミスター・マルフォイ。なぜ怒ってしまったのか……そもそもわたしの正反対の女が理想だとか失礼なことを云い放った、わたしのほうこそ激怒していいものじゃないだろうか。
そう云われてみればなんだか無性に腹が立ってきた。先輩は勝手すぎる。
勝手に怒って、勝手に出ていって、勝手に結婚して。


──いや、結婚はわたしは関係ないか。そこに怒るのは筋違いだ。
関係ない。そう思いつつも、やはりショックを受けていることを自分に騙すことはできない。
あしたも変わりなく来てくれるだろうか、と考えながら、わたしは失恋のため息を漏らした。