ホグズミード郵便局の裏手、枯れた欅並木道を通り過ぎてゆくと、赤煉瓦の瀟洒な外観のカフェーが見える。
こじんまりとした店構えだが、通り過ぎぎわに芳しいコーヒーの香りが漂ってくるので、つい惹かれて中に入ってしまいたくなる。そこそこ繁盛しているようだ。
店主は半巨人に非常によく似ているが、体が大きいだけのごく普通の魔法使い。コーヒーの匂いの染みついた指先で、いつも茶器をぴかぴかに磨いている。
わたしはそこのミート・スパゲッティがすごく好き。ひき肉やなすやセロリやらが混ざり合って、何とも言えない風味を醸し出しているし、スパゲッティの柔らかさや香り、優しい味付けは、口に入れるたびに新鮮な感動を与えてくれる。
難点を言えば、量がちょっと少ないというだけだ。出来上がるまでに結構待たされるのだが、それは一向に構わない。あのうまみが凝縮した味を口の中で想像しながら、水を飲んだりして空腹をごまかして、澄まし顔で窓べを眺めるのがとても楽しいからだ。









ところでどうしてわたしはいまマルフォイとバタービールを飲んでいるのだろう。
「三本の箒」の店内は、いつもびっくりするくらい温かくて、バターの甘い匂いと、だいだい色のランプの光がバタービールのしゅわしゅわと弾ける泡沫を照らしている。マルフォイはわたしのとなりで、注文したきり一向に手につけないジョッキを見つめながら、ぼうっとしているようだった。わたしも一口か二口飲んだのだが、いかんせん量が多すぎる。喉に絡みついてくる甘ったるさ……胸やけを起こしてしまう味だ。美味しいことは美味しいのだけれども、しょっぱいものが食べたいときには適さない飲み物だ。あのカフェーのミート・スパゲッティが食べたいな。
「ぼくはこれがあまり好きではない」
マルフォイが胡散臭そうな顔でジョッキをわたしに押し付けてくる。わたしは一瞬びっくりした。そもそもふたりでこうしているのも、マルフォイがわたしを「バタービールを飲みに行こう」と誘ってきたからなのに。
「なんでこれを注文したの?」
「たまにあるだろ、結果はわかっているのになんとなく挑戦したくなることが」
「挑戦してないじゃんか。一口も飲んでないのにさ」
「このジョッキのふちまで注がれた分厚い泡の膜を見ろよ。えずきそうだ」
「あんた若いのに胃弱なの?」
マルフォイは憤慨して、「そんなことはない」と低い声で反論する。「味が気に入らないんだ」
ちょっと怒ったようなその顔に笑ってしまう。わたしはマルフォイが不機嫌そうにしていると幸福に感じる。ささやかで安っぽい安心感。きっと関係が保たれていることを確認したいのだ。
「じゃあもう出る?」
マルフォイは「そう急くな」と言って、かすかに眉根を寄せる。整った美しい容貌をしているが、神経質そうな眉や侮蔑的なくちびるが、彼を一見して意地悪げに思わせる。黙ってぼうっとしているときは神秘的でさえあるのにな。さっきのように、バタービールを前に途方に暮れているときみたいに。
「バタービールを前にして喜ばないやつなんてぼくとおまえくらいだな。全然飲んでないじゃないか」
「わたし、気分じゃないの。どっちかって言うとお茶が飲みたいな。ストレートのアイスティー」
「じゃあなんでここに来たんだよ」
「あんたが誘ったからじゃない」
「そうだったか?」
「そうだよ」
マルフォイはそこで、ちょっと黙った。店内はぺちゃくちゃとおしゃべりしている声が、バックミュージックのように、心地よい一定のリズムを保って響いている。人が集まっていて、湯気や、お酒の匂いがむっと集まっているパブという場所が、この上なく居心地がよかった。
「このあいだの話だが……」
マルフォイの、テーブルの上に置かれた白い指が、ぴくりと動いた。すこし戸惑ったような口調なのに、その横顔は明らかに平静だった。
「よく考えた」と彼は言った。わたしは、「うん」と肯いた。
彼が声を発したとき、人々のざわめく声は、不思議とわたしの遠く後ろに下がっていった。沈黙があると戻ってくる。無意識のうちに、マルフォイの声にすごく集中しているのだ、とわたしは思った。
「どういう結果が出たの?ここに誘ったんだから、まだ悩んでます、で済ますわけじゃないよね?」
マルフォイは肩をすくめた。「正直に言えば、答を出せそうにない」
「そう」
わたしの顔は、いま、どんなふうだろう?きっと青褪めて、表情が消えてしまったに違いない。顔がこわばって、いつもしているような、何気ないリラックスしている表情が、どんなもんだったか思い出せない。
ミート・スパゲッティが、食べたいな……。
マルフォイは黙りこんで、ジョッキを取り上げた。ほんの少しだけ、甘ったるい泡を一口含んでから、木製のテーブルの上に置いた。泡は相変わらずしゅわしゅわと音を立てている。
わたしたちは、どういうふうに見えるだろう。
マルフォイは、深いネイビーのセーターを着ていた。わたしも同じような色合いの服をつけている。たぶん、一層わたしの顔色は悪く見えるだろう。
きれいなカーディガンでも羽織ってくればよかったと思った。
顔色がうんとよく見える色合いの。この服では、マルフォイと色がかぶっているので、なんだか不釣り合いな二人組に見えるだろう。
結局のところ、洋服だけではなくて、わたしとマルフォイはいつもこうなのだ。
なんとなくタイミングが合わない。気分も乗らないし、いまもこうやって飲む気もしないバタービールを前に黙りこんでいる。
わたしはカフェーに行きたいのに。マルフォイもこうしていたいわけではないはずなのに。
「出る?」
たまりかねて言うと、マルフォイはちょっと顎を引いた。ふたりで立ち上がり、店を後にした。
扉をくぐりぬけると、冷たい風が、びゅうびゅうと音を立てて、顔にめがけて飛んできた。
どうして一緒にいるのだろう……。
わたしとマルフォイは、ぶらぶらと肩を並べて歩き出した。中心部からすこし逸れた街路樹を目指して進んでいくと、もともと少なかった人気がどんどん減っていった。寒いので、町の人々は急いで店内や軒先に行ってしまうのだろう。

「なに」
「寒くないか?」
「寒いよ。マルフォイは?」
「寒い」
「うん……」
「全員、一体どこに集まっているんだ?全然見当たらないじゃないか」
「さっきの店にたいていのホグワーツの生徒はいたよ。それ以外はたぶんハニー・デュークスに行ってるんだと思う。もう帰った子も多いかもね」
「ふうん。そういうものか」
「たぶんね。いつもホグワーツに閉じ込められてるんだもの。やっぱり外は楽しいよね」
「ん……そうだな」
「バタービールどうだった?」
「やっぱり好きじゃない。でも、悪くない」
「おいしかったってこと?」
「すこしなら」
背の高い煉瓦の壁に突き当たった。その壁は、優に10フィートはあった。わたしたちは、無言でその頂点を見上げた。この壁のむこうには何があるのだろう?影も形も見えはしない。
「引き返すか……」
「うん。こんなとこ歩くの、初めて」
「この村はここまでだったんだな。このむこうは多分、延々と森が茂っているに違いない。針葉樹の葉が落ちている」
「あら、ほんとうね」
わたしたちは、また引き返し、小さな民家と民家のあいだを通り抜けた。同じような茶色の屋根、同じようなくすんだ色の壁の建物。小さな村の中なのに、すこし寄り道をすると、目印を見失ってしまう。
わたしは、ホグズミードの中で浮いたような、赤煉瓦のカフェーの外観を思い浮かべた。
「まだ時間があるなら、お茶を飲みに行こう。今度は普通の」
「うん、いいね」
わたしはちらとマルフォイの外套を纏った右腕を見た。すぐに目をそらした。一瞬でもそこに抱きつきたくなった。

「うん?」
「寒いな」
「言うまでもなくね」
「つまらない反応だな。だが、そのほうがスリザリン的と言えるのかもしれない」
「なあに?だって見るからに寒い景色じゃんか。いまにも雪が降りそうだもの。それにわたし、寒いっていう言葉が嫌い。ほんとに寒くなる」
「むつかしい女だ。寒さをも共有し合おうという美しい友情がわからないのか」
「そんな友情は、いらない」
「ひどい返答だ。なにを差し出してもいらないばかり」
「愛が欲しいだけ」
なんという奇妙な会話だろう。しかも、わたしもマルフォイも真面目くさった顔をしていた。ちっとも笑わなかった。ごまかしの笑顔なんてまっぴらだった。愛が欲しい、それも、いまこの瞬間に……この馬鹿げた願いを、わたしは本気で抱いていた。
「愛か」マルフォイは鼻で笑うかと思ったが、無表情だった。
寒さの中で、彼の色素はますます薄くなったようだ。
白い頬、薄茶色の眉、淡い金色の髪。寒いからこれがほしいのだ。
どうせきょうは、マルフォイが一緒なので、ミート・スパゲッティも食べられないだろうし。
“わたしのことを愛していないなら、どこかに行って”と言えたら、どんなに胸がすく思いだろう。
そしたら、がつがつとミート・スパゲッティを食べるのに。いますぐあのカフェーに向かうのに。
マルフォイはずるい。わたしの気持ちを、すっかり知っているくせに、いまだにはっきりとした答をくれはしない……。
振るなら振ればいいのに。
たぶん、マルフォイはわたしのことを憎からず想ってはくれているだろう。でも、彼はわたしの知りえない障害を抱えている。恋愛なんかしている場合ではないのだ。
こうやって、気まずい想いをしながらもふたりでぶらぶらする関係を望むなら、わたしは、そんなものはいらない。わたしのものにならないマルフォイなんて、なんの足しにもならない。かえってお腹がすくだけだ。
「よく考えていたと言っただろう」
「うん」
熱のこもったいらだちを持て余すも、わたしは、それをマルフォイにぶつけてやる気は起きなかった。
マルフォイは長い睫毛の下の、灰色の瞳で、わたしを一瞥した。鼻梁や目蓋に、白い光のラインが描かれていた。ぼやけた冬の光だった。

「なに?寒いの?」
「寒い。……それから、この三日間と言うもの、ずっとおまえのことを考えていた」
マルフォイはきっと、喉が渇いているのだろう。声がすこしかすれている。
わたしたちは、目を合わすのをやめて、前方の建物と建物に挟まれた細い道筋を見ながら、足音を立てて歩き続けた。この三日間。ずっとわたしのことを……。それなら、わたしもマルフォイのことを考えていた。ずっと、ずっと前から。
マルフォイは白い吐息を、薄いくちびるの隙間からそっと洩らした。

「なに。なんなの?」
「まだ気持がはっきりしない。帰るころに、ぼくから言うから、それまで、お茶に付き合ってほしい」
「なにを言うの?」
マルフォイは肩をすくめた。
「おまえ、なにが欲しいんだって?さっき、耳を疑うようなことを言ってたな」
「なんのことかわかんない。それをくれるの?」
わたしの顔が、すこしずつ熱くなってきたので、それを隠すために不機嫌そうに顔をしかめた。マルフォイは、きょう初めてと言える笑みを浮かべた。


「よく行くカフェーがあるんだ。いまからそこへ行こう」
「この道の奥にある?」
「ああ。知ってるのか?」
「知ってる知ってる、わたし、大好きなお店なの」
「ふうん、そりゃよかった」




ホグズミード郵便局の裏手。
枯れた欅並木道を通り過ぎてゆくと、赤煉瓦の瀟洒な外観のカフェーが見える……。


「ここのミート・スパゲッティが絶品なんだって。ほんとうに」
「おまえはなんにもわかってない。ここは、大変うまいニシンがあるんだ」
注文を済ませた途端に、とてもお腹が空いてくる。半巨人のように大柄な店主が、忙しそうに、すこし無愛想に次の注文待ちの卓へ歩いていった。
マルフォイは、すっかりくつろいだようにナプキンを広げながら、わたしを見てにやりと笑う。
ああ、ミート・スパゲッティも、マルフォイの“言うから”と言っていた内容も、いまからとても楽しみだ。とてもお行儀よくしていられない。
でも、いまは、待つしかない。
澄まし顔で、水でも飲みながら──