わたしは、旦那さまに肩を抱かれて、となりの寝室に入りこんだ。こんなに別の感覚を持って、この部屋へ入るのは初めてだ。毎朝毎晩、ここへリネンの取り替えに来ていたけれども。
「どこかの窓が開いているのかもしれない」
旦那さまは、わたしを寝台に坐らせて、そうおっしゃった。
「雨の匂いがすると思わないか?」
「きっと、わたくしからするのだと存じます。ハンプシャーの豪雨の中を、雨合羽を着て雑務に出ておりましたから」
「おまえから?……へえ」
寝室には、蝋燭の炎が3つ揺れているだけで、薄暗いばかりでなく、その光にあたる部分が橙色に照らされている。ここでは、わたしがどんな顔色をしているのかわかりはしまい。だが、顔は燃えるように熱いのに、わたしは不思議と冷静だ。
旦那さまもわたしも、まるでこうなることを何年も前から知っていて、心の準備がすっかりできているような落ち着きぶりであった。
「本日は、ハンプシャーでもずっと雨が降っているのでございます。ウィルトシャーでは、まだ霧雨なのでお静かでございますね」
旦那さまは、それには答えずに、寝かせるわたしに覆いかぶさって、わたしの目を探るような眼差しでじっと見つめた。重なった胸に、旦那さまの体温が伝わってくる。
「ラヴェンダーの匂いが……」
「ん……?」
「シーツのラヴェンダーの香油が、濃すぎでございますね。これでは安眠できないでしょう」
「いまは、おまえの雨の匂いしかしてこない」
「雨の匂いは、安眠作用がございますか?」
旦那さまは、わたしの襟の釦を外して、鎖骨を愛撫しながら、「まだわからない」と言った。
いま、旦那さまのくちびるが、わたしの裸になった腕に触れる。くちびるは、特異な部位で、それがどこに触れようと、どうごまかそうと、触れられたほうはそれがくちびるだと察知できる。
くちびるは、くちびる以外の感触は成し得ないし、それ以外のように気安く触れられるものでもなく、何か崇高な印象さえある。
わたしは、旦那さまのくちびるが素肌をついばんだり、腕と腕がわたしの体を痛いくらい抱きしめたり、汗がふたりの重なった皮膚に浮かんでくるのを、息を殺して感じている。
目を閉じると、わたしの体の中に押し入ってくる存在が、わたしのことを愛していて、わたしもまた愛している、その感情が永遠に続きあう……というような錯覚を見た。

旦那さまはため息を混じらせながらささやく。
静謐な夜のとばりが、寝室のオーガンディのカーテン越しに広げられ、屋敷を含むあたりは、ふくろうの鳴き声がかすかに響いているだけだ。雨は、いつのまにか上がり、空気がひやりとして、夜気に水分を与えている。
旦那さまとわたしは、ときおり体を動かしたり、相手の髪に触れて指を通したり、相手の体に耳をあてたりしながら、ずっと抱きしめあっていた。旦那さまの体温はしっくりとわたしの肌に馴染むし、その皮膚もわたしに呼応するようだ。抱きしめあうことは、なんて気持ちがいいんだろう。抱きしめられると、わたしが旦那さまのお傍にいたい女、高望みをしてしまう女になってしまう。
しかも旦那さまは、わたしがそうなることを望んでいらっしゃるかのようだ。そして旦那さまが、こんなに思わしげにわたしをご覧になるので、わたしはどうすればいいのか、自分はどうすべきなのか、考えることができなくなった。
旦那さまの瞳を見ていると、考えるなどということを自ら放棄してしまうのだ。
「旦那さま……」
「おまえの旦那さまは、いまはぼくの父のことだ。ぼくはもう、おまえの旦那さまではない」
旦那さまは、ゆっくり動いている途中でそう言って、わたしを抱き起こした。わたしは、旦那さまの裸の胸に頬を寄せて、自分の呼吸が整うまでじっとしていた。
「でも、わたくしはあなたさまをそう思いたいのです」

「はい?」
「………また一緒に住まないか」
わたしは、旦那さまの胸から顔を上げて、旦那さまの首に腕をまわした。その一言は、わたしがほしかったものだ。わたしはずっと、そう言ってほしかったのだ。
「父や母にはぼくから話しておくから、おまえは、何の心配もいらない。おまえはただ、好きなようにふるまっていればいい」
「好きなようにだなんて。いくら2人のお嬢さんが来てくださるからって、ここでのお仕事がお忙しいことに変わりはございませんでしょう」
「わからないのか」
旦那さまは、わたしの額を撫で、そしてわたしの頬を愛撫する。旦那さまの顔が、一瞬苦痛に強張ったように見られたが、次の瞬間にはすぐいつものとおりに戻られた。
「ぼくは、おまえに、結婚してくださいと言っているんだ」
わたしはさっと自分の顔に驚愕のために血の気が引くのを感じる。そんなことを口にしてほしくはなかった、とまず思った。こんなふうに裸で、抱きしめあっているけれど、言葉にしてしまうとわたしたちは終わってしまう気がしたのだ。
「それはなりません……わたくしは旦那さまのおために何一つできない女でございます。ご自分の代で、純血の血筋を途絶えておしまいになられるのですか?」
「おまえはそう言うだろうと思っていた。ぼくは、近いうちに結婚しなければならない。相手は誰でもいいんだ」
「それでしたら、いっそう、旦那さまにお似合いの女性がいらっしゃるはずでございますわ」
「そう、だから、相手はおまえがいいと思った。どうせなら、好きな女と結婚したいと思った」
旦那さまはそこで口を噤み、わたしの額に額を重ね、たがいの目の下に掛かる睫毛の影を見つめていた。
「……いま、世の中は、混血を認める純血の者が博愛主義と見なされる。5年前ならいざ知らず、そういう世の中になって来ている。おまえと結婚するのは、決してぼくに不名誉なことではないんだ。おまえは、家名が穢れると思いこんでいるんだろう?」
「そうではございません」
目が熱くなり、鼻腔がつんとしてくる。わたしは、なぜ泣き出しそうになっているのだろう。旦那さまのことを思うと、わたしは苦しくて死んでしまいそうになるのだ。
「旦那さまは、根っから、純血至上主義者なのです。いま、一時の感情でわたくしを家の中へお入れになったら、いつか、大きな後悔をなさる日がきっときます。わたくしは、そうやって、不名誉なことではないとご自分に言い聞かせて我慢なさる旦那さまを見るのが、辛うございます。わたくしでは旦那さまをお幸せにしてさしあげることはできません」
旦那さまは、蝋燭の炎を浴びながら、じっとわたしを見つめていたが、やがて言った。
「………ほかの女性なら、どんなでもぼくは幸せになれると?」
「ええ。純血の女性でございましたら、いつかお子さまができましたさいに、きっとご自分を幸福に思われることでしょう」
「そうと限るようには、ぼくには思えない」
「ですが、わたくしのような混血の女から生まれるあなたさまのお子さまのことをお思いください。あなたさまは、あんなにご自分が忌み嫌っていた混血に、ご自分のみ子を生ませてもよろしいのですか?最初からお気の毒ではございませんか。わたくしは、あなたさまのお子さまにそんな境遇にあっていただきたくございません」
旦那さまは、わたしのことをじっと見つめ、真剣に耳を傾けていたが、わたしが言いおわると、やがて眼を伏せてわたしの手を取った。
「おまえはそれで幸せなのか、
旦那さまの手……。ヴァイオリンを奏でたり、女性の手をとって踊ったり、ペンを持ったり、茶わんを持ったりなさる手が、いまはわたしの手を握り、指にせっぷんなさったりする。わたしは旦那さまのプラチナブロンドの髪に口付け、滑らかな感触に指をからめた。
「幸せでございます。わたくしは幸せなんです。旦那さまにお仕えすることができて、お傍にいつまでもいられて、わたくしは世界一幸せ者でございます」
「つらくないのか……ほんの僅かでもなにか咎めるような意識は感じられないのか?」
「つらくなんてございませんわ。わたくしは、あなたさまのご家族をお守りし、お仕えしたいのです。そんな夢がございますの」
旦那さまは、わたしのくちびるにせっぷんをし、頭をなでたり、指先で慈しんだりなさった。
「おまえはけっきょく、ぼくをどう思っているんだ。それは恋愛感情か?」
「それはお答えできません。言ってしまったら、もう旦那さまのおそばにいることができなくなってしまうからです」
「なんて強情な女だ」
旦那さまは呆れたようにおっしゃったが、その表情が、ご自分でもすっかり納得してくださっているようなのは、わたしにもわかった。旦那さまも、わたしと旦那さまが、けっきょく恋愛という枠の中にいないほうがいいことを、よくご存じだろう。
わたしが旦那さまのお子を産む、でもそれは旦那さまもお子さまに足枷をつくってしまう。わたしが混血だからだ。今後も続く長いマルフォイ家の血脈に、一度でも混じってしまったら、それはもう取り返しがつかない。
あるいは恋愛感情を持ちあい、籍などいれずただ一緒にいたとしても、旦那さまにできる今後のご家族が不幸になられると知っていて、どうしてお傍にいられるだろう?ご家族ができれば、わたしは去らなければならない。そんなことができるほど、わたしは器用ではないし、もう旦那さまがいらっしゃらなければわたしはわたしでなくなるのだ。
わたしは旦那さまを、男性として愛してしまった。
このままずるずると一緒にいたら、きっとわたしは欲張りになって、わたし以外の女性と一緒になってほしくないとか、もっとお会いしたいとか、貪欲にいろんなことを求めるようになる。
だから、わたしはもう、旦那さまとこんなふうになるのは最後にしなければならない。
求めるのではなく、わたしは旦那さまになにかをしてさしあげる立場の者だ。なぜならわたしは、使用人で、お給金をいただいて働いている者、雇われているメイドだからだ。
自分の本分を忘れて、いったい何のためのメイドだというだろう。
「旦那さま、では、わたくしはこちらで再びお仕えしてよろしいのでございますか?」
「ああ。あちこち引っ掻きまわしてすまなかったな」
旦那さまはわたしのくちびるを指で触りながら言った。「ハンプシャーのことは気にかけなくていい。ぼくがすべてうまく言っておこう」
「なんだか、申し訳がございません。でも、旦那さまを旦那さまと呼べることがまたできて、ようございました」
「父と母にはぼくのことをなんて呼んで話してたんだ」
わたしが口ごもって赤くなったのを見て、旦那さまは楽しげにわたしを抱き寄せる。
「ドラコさまと呼んでおりました」
ドラコさま、とお呼びするのはなんて気まずくて照れくさいのだろう。ルシウスさまやナルシッサさまに「ドラコさま」とお話しするのはなんともなかったのに、いざご本人を前にすると、とっても気恥ずかしくて仕方がない。
「そりゃいいな。なんだか、おまえがどこかの純血の令嬢のように見える」
「それと、ルシウスさまから、旦那さまにとマフラーかなにかをお預かりしております。お書斎に置いておりますわ」
「マフラー?ああ、ハンプシャーは暑いから、きっと父はもういらないんだな」
「旦那さまは愛されてますね。とてもみなさま、旦那さまが大好きなんです。きっとお可愛くて仕方がないんですわ、こんなご立派な青年になられても」
「なんかおまえ偉そうだな。こんな場所ででそんな、両親の話なんか持ち出すなよ。気まずいだろ」
旦那さまがそう不機嫌そうにおっしゃるのを見て、わたしは笑ってしまう。
「旦那さま、お子さまができるってそんなことなんだと思うんです。ご両親さまにとって旦那さまがそうであるように、宝物なんです。お子さまができたら、旦那さまはもっとご幸福になられますわ。ですから、早くご結婚なさってくださいね。わたくしにもお世話させてくださいね」
「…………。おまえは、ほんとうに、それでいいのか?ぼくは、安易な気持ちで求婚したんではない。おまえは、ぼくが将来後悔するというが、ぼくはその覚悟もできた上なんだ。それがわからないのか?」
わたしは、旦那さまの青灰色の瞳を見つめ、手をぎゅっと握り、お腹に力をこめて、あふれそうななにかを飲み込んだ。
物わかりのよい人間になりたい。強くて、力があって、清潔で、ただ旦那さまがお幸せなのを見て、満足していられる人間になりたい。
「おまえがぼくを愛してないんなら仕方がないことだが、ぼくはきみを愛している。そのことを忘れないでくれ」
旦那さまはそうおっしゃって、わたしの頭を撫でると、蝋燭の炎を消してわたしの体にシーツを掛ける。
そしてわたしを抱いて、「おやすみ」とおっしゃった。
わたしも、小さな声で、やっとのことで「おやすみなさい」と言い、ぎゅっと目をつむった。
こうして抱き合いながら眠るのは、なんて心地がよいのだろう。こうしているのが、幸せすぎるので、目がくらんでしまいそうだ。
旦那さまのお幸せのためなら、何でもしようと思ったではないか。旦那さまのために、マルフォイ家のために、わたしのような女が、旦那さまの生活の中に飛び込んでしまってはいけない。わたしは旦那さまの生活の外にいる使用人で、そしてわたしが旦那さまのためにしてさしあげられることは、このお屋敷を守り、お食事のご用意やお掃除や、そんな日常のすべてをこなしていくことだけだ。
旦那さまと奥さまとお子さまがいらっしゃる談話室の片隅で、わたしはみなさまのためにお茶のご用意をする。その輪の中を眺めているわたしこそが、わたしには相応しい。けっして、こんなふうに、旦那さまの腕に抱かれているような女であってはならないのだ。
わたしはなんて恵まれているのだろう。よいお屋敷に雇っていただき、主人を愛することができて、また主人もわたしにお優しくしてくださる……。これ以上の幸せが、メイドのわたしにありうるだろうか?
だが、何度そう思いこもうとしても、ある一つの考えが、いつもなんらかの形状をなして沈澱しているのだ。
考えても仕方のない願望だけれど。それが叶わないからこそ、わたしは、旦那さまとは結婚しないのだけれど。でも──
わたしが、純血の娘だったらよかったのに…………。






翌朝、
金色の光がオーガンディのカーテン越しに、縞模様を描いて瞼に差し、眩しいので寝返りを打つと、旦那さまが「起きろ」と無愛想におっしゃった。
「よく眠れたか?お茶を淹れたから、これを飲んだら風呂に入ってこい」
旦那さまは、さきに入浴を済ましたらしく、濃紺のバスローブを着て茶器を取り上げていらっしゃる。わたしは、まだぼうっとしていたが、意識が戻ると飛び上るように寝台から起き上がった。
「申し訳ございません!わたくしは、どうかしていたんです。なんだか、休日のような気持でいたのです」
「いいから。ほら」
旦那さまは、わたしに茶わんを差し出すと、寝台に腰をおろして、ご自分もお茶を飲みながら新聞を広げる。湯気と芳しいお茶の香りが、濃い朝陽に透け、白い靄のように部屋の中を漂っている。
寝台の端に腰かけ、新聞を読んで、まだ濡れた髪のままでいらっしゃる旦那さまの光景は、起きがけに飲む一杯のお茶のように、わたしの体内に深く沁みこんだ。
その光景を眺めながら、わたしは、“この朝のこの瞬間を、わたしは忘れないだろう”と思った。
陽光を背後から受け、旦那さまのプラチナブロンドの髪や、素肌を、白く鈍く、光の中に溶け込ましている。彫像の眼差し、細く長い指や、受け皿を載せた膝。
この日常的に繰り返したのであろう姿や様は、わたしがまるでこの場にいないもののように思わせる。旦那さまはきっと、おひとりのとき、よくこうして寝室でお茶を飲んでいらしたのだろう。そしてその何気ない姿を、わたしはいま目の当たりにしている。わたしがこの光景を目にすることは、今後永遠にあり得ないのだ。これを目にするのは、この先、旦那さまの奥さまだけなのだ。
わたしは、いつまでもこうしていたいと思った。すっかり寛いでいらっしゃる旦那さまと、それを見つめているわたし。
この気持ちを忘れないようにしよう。旦那さまがいらっしゃる空間にいることができる。この感情を、わたしは大切にしよう。
、メイドの見習いたちはきょうの昼にやってくるから、そうしたらあれこれと教えてやってくれるか?使い物になるまで、そう時間はかからないだろう」
「かしこまりました、旦那さま」
わたしは、昼にやってくるというふたりのメイドのことを想像した。わたしは、ふたりに会うことが楽しみになってきた。きっと人手が増えて、マルフォイ邸はもっと立派なお屋敷になり、陰気なようすが消えて、より四季の変化を著しく反映させるだろう。春になり、景色が賑やかになり、そのころには、わたしと旦那さまがふたりで過ごした一年間が、遠い過去のことのように思えるだろう。
「風呂なら沸かしてあるから、入ってこい。ぼくは着替えを済ましてくる」
旦那さまが新聞を折りたたんで立ち上がったので、わたしは、急いで「旦那さま」と呼びとめた。
「わたくし、新しく入ってくる娘さんたちがマルフォイ家でのお仕事になれたら、すこしお暇を取らせていただいてもよろしゅうございますか?」
旦那さまは、寝室の扉の取っ手に触れながら、「なぜだ?」と静かに問いかける。
「すこし、休養を取らせていただきたいのです。いろんなことがございましたから。心の整理に出かけたいのです。このままではわたくしはだめなメイドですから」
さっきまで大丈夫だと思ったのに、わたしはなぜか、また泣き出しそうになっている。
ああ、わたしは、ほんとうに旦那さまを愛している。この気持ちは恋愛感情なのだ。恋愛感情のままではいけないのだ。もっとおおらかで、自然な愛情に成長できるまで、わたしにはもっと時間が必要だ。
そして帰ってきたら……気持ちに変化がついたら、二度とこのお屋敷を離れないようにしよう。
旦那さまが出て行けと言っても、わたしはここを離れないのだ。わたしの居場所は、旦那さまのお傍に存在しているのだから。
旦那さまは、振り向きもしないで、しばらく黙っていらっしゃったが、扉を開けながらおっしゃった。
「必ず戻ってこい」
わたしは、旦那さまがあちらを向いているので、涙を見られずに済んだと思ったが、すっかり涙声なので意味がなかった。
わたしはくちびるをわなわなさせながら言った。
「ええ。おみやげを、たくさん持ってまいります………」




日が高くなると、空はからりと晴れて、たゆとう雲も限りなく薄く引き伸ばされたものばかりだ。
わたしは入浴を済ませ、メイドの服を着ると、旦那さまにご朝食をご用意して、朝の間の掃除をし、屋敷中の窓を開けて新鮮な空気を取り入れた。そして、あらゆる炉棚の花瓶に、馥郁たる香気を匂わす冬ばらを活け、ばたばたと走りまわって、今度は窓を閉めてまわり、銀器を磨きながら、食堂の窓べに腰をおろした。
切子細工の窓硝子ごしに、旦那さまが番犬を従えて散歩していらっしゃる姿が遠くに見える。
犬は、尻尾をちぎれそうなほど振りながら、散歩の嬉しさにあちこちを狂気のように走り回り、草の匂いを嗅いだりしている。旦那さまは、薄手のジャケツを着て、薄い雪の絨毯を踏みしめ、森のほうへぶらぶらと歩いて行かれる。
やがてつつじの生垣を越えて行かれたら、あのお姿はいまに見えなくなるだろう。
わたしは、50年後もこうしていられたら…と思った。旦那さまは、優雅な物腰の老紳士で、やわらかなプラチナ・ブロンドを美しい銀髪にして、やはり黒や灰色がお似合いのジャケツを着ていらっしゃる。ことによると、足腰が弱って、散歩に出ても長いことは無理かもしれない。あるいは、ご両親さまのようにハンプシャーにお住まいになって、家督をすっかりご子息に継がれ、勝手気ままに好きなご本でも読んでいらっしゃるだろう。
わたしも、すっかり白髪ばかりになって、よたよたしながら、若いメイドに小言をいう、やっかいなお婆ちゃんになっているかもしれない。掃除や料理はもうできないが、こうして銀器を磨くことくらいはできるし、旦那さまの話相手だって楽しんでいるだろう。
わたしと旦那さまには、かつての情熱は消え去り、ただ深い信頼と、大きな家族愛のようなものを共有している。ふたりの瞳の色素は薄くなり、光がまぶしくて直視できないが、わたしがいつまでも旦那さまを眺めつづけることは変わらないし、わたしの愛情は、豊かで、変動せず、大きなものに成長している。
そして、わたしは、旦那さまより先に息を引き取ろう。旦那さまはきっとわたしより長生きなさる。なぜなら、わたしがあれこれと気を配って、けっして病気なんかにさせやしないからだ。
そうしたら、死ぬときにわたしは、旦那さまに看取られながら、「ずっと愛してましたよ」なんて言えることができるかもしれない。いやいや、「ずっとお慕いしておりました」のほうがいいだろうか?わたしは純血の娘ではない、一介のメイドなので、主人にはこんなふうでしか愛を伝えることはできないのだ。そしてそれは、とても幸せそうだ。そんなことを想像すると、楽しくてわくわくしてくる。
ばかげた絵空事を考えていると、旦那さまがおひとりで、つつじの生垣を越えずにこちらに戻っていらっしゃった。
きっと犬が遠くに走って行ってしまったので、首輪とリードが必要になったのだろう。


!ちょっときてくれ」
わたしは銀器を食卓に置き、立ちあがった。
「かしこまりました、ただいままいります!」


わたしは大急ぎで、旦那さまのもとへ駈け出した。








2009,01/05〜02/27