ハンプシャーのマルフォイ邸にお仕えすることになったわたしに、まず与えられたのは、一階の南にあるちいさな部屋と、そしてメイドの服であった。
部屋は一人部屋にちょうどよい広さで、かわいいフリルのシーツがかかった寝台と、細長い窓、化粧台があり、制服は前よりもレースが多めにあしらわれている。エプロンのポケットが大きいので、わたしはそこに杖を入れることにした。杖を持ち歩かないことを、よく旦那さまに叱られたからだ。
第一日目は、料理と洗濯をして終え、第二日目は、それに縫物の仕事も加わった。だが、なんて時間がゆっくりとしているのだろう。しもべ妖精がそれぞれの仕事をするので、わたしの分担が減り、その分わたしはほかの仕事に没頭することができるのだ。


「もう慣れてきたのかね、ここでの暮らしには」
「ええ。とてもお仕事しやすくて……。とても快適でございますし」
「そう、美しさはウィルトシャーの屋敷のほうがいいが、住みやすさならこちらのほうが向いている。ドラコはあまり好かないようだがな。あれも息子を持ち、家督を譲るときが来れば、ここのよさにも気づくだろう」
「ドラコは静かなところが好きなだけよ。あのこは、波の音さえも我慢ならないのよ」
そこへ奥さまが、ベージュのばらを抱えてテラスから入っていらした。それを持って長いすに腰を下ろすと、テーブルの上でお花を活けはじめる。無駄な葉や高さを調節する手つきが、完璧を追求するように何度も往復されるのを、わたしは見惚れた。
昼間は聞こえないが、たしかに、夜寝ているときに耳を澄ますと波音がざわざわとかすかに聞こえてくる。水の音を聞いていると安心するのだが、同時に目がさえてくるのはなぜだろう。
「あのこは神経質なのよ。とてもね」
「神経質だな、たしかに。少し気になることがあれば、それをなんとかするまで気が休まらないらしい」
わたしは縫物を続けながら、ルシウスさまを見ていた。美しいお方だ。こうして見ていると、何年も先の旦那さまを見ているような気持ちになった。
あと20年もしたら、ドラコさまも同じように、ご子息を“あれは仕方のないやつだ”、などと言って、頬笑みながらお茶を飲んでいらっしゃるのだろう。
「あなたに似たんですわ。あのこは、あなたの若いころにそっくり」
「ふむ。たしかにそうらしい」
わたしは、ふと、こういった時間が永遠に続くのだ、と思った。
テラスから金色の陽光が差す談話室。廊下から、しもべ妖精が歩く足音が静かに響いて、そのたびにルシウスさまの足元で寝そべっている老犬の耳がぴくぴくと反応する。
わたしは、こうして繕いものをどっさり抱え、ナルシッサさまはお花を活け、ルシウスさまがお茶を飲みながら本などを読んでいらっしゃる、そうしてときおり、旦那さまのことを軽口を交えながら話したりする……。
時間がたてばたつほど、旦那さまはこちらへはめったにお出でにならないかもしれない。男性とはそういうものだ。だが、おふたりが旦那さまのことを話題に出されなくなることなどなくて、わたしも、いつまでも旦那さまのことを思い出すだろう。そこに旦那さまの影がなくとも、わたしを含めてみなさまが、旦那さまの思い出をずっと胸にしまっておいて、いつでもそれを引き出すことができる。眠っているときでも、頭にはないときでも、わたしたちは旦那さまのことをいついつまでも記憶しているだろう。
旦那さまが次にいらっしゃるころは、わたしもこちらでりっぱに勤め、すっかり慣れ切ったあとだ。
そうして、ちゃんとご両親さまにご満足いただける使用人になって、旦那さまをご安心させよう。


そう思っていたのだが、旦那さまは、それから数日後にぶらっとお出でになった。
わたしは絹糸を紡ぐナルシッサさまのかたわらで、ナルシッサさまのお好きなご本を朗読しているところであった。旦那さまは、お出迎えや上着をお預かりするために大慌てで付いてくるしもべ妖精を無視して、袖のカフスを外しながらやっていらっしゃった。
「仕事で近くまで寄ったんですよ」と言いながら、旦那さまはわたしに上着をよこし、そして長いすに腰を下ろす。ナルシッサさまはこうした息子の突然の来訪に特に驚くでもなく、お茶をお注ぎしてお出しする。
「それは疲れたでしょう。夕食は食べていくの?」
「いや、ほんとうにすこし寄っただけなので、すぐ行かなければ」
「デュクシーはどう?」
「しもべにしてはなかなかやっていると思いますよ。メイドの娘たちは、3日後から来ることになっているので、そうなったらデュクシーをお返しします」
「必要ならそのままそっちで雇ってもいいのよ。こちらは困っていませんからね」
「いや、ぼくのほうも大丈夫ですから」
久しぶりに見た旦那さまは、なんとなく現実味のない、あまりに美しすぎるまぼろしのように思わせた。旦那さまが美形なのは知っていたけれど、容貌だけでない、なにか目に見えない洗練された空気が、旦那さまの肩のあたりに絶えず漂っている。お会いしていなかったのはたったの数日だが、“今度お会いする時はうんと先のことだ”と思いこんでいたわたしは、実際にいまお会いして見て、本当に何年も会っていなかったように錯覚する。
「それより、お見合いのことだけど……グリーングラス家の次女で、とても愛らしい女性だそうよ。会ってみない?」
「グリーングラスなら知っていますよ。長女が同級生なので」
「そう、なら話が早いわ。考えておきなさい」
わたしはナルシッサさまの糸紡ぎをお手伝いしながら、顔には出さず、その話に驚かされる。おふたりは、その女性のことを簡単に話したあと、聖マンゴに入院している遠いご親戚のことを話題に話し合っていた。


「さて、お邪魔しましたね。ぼくはそろそろ失礼します」
「また寄りなさい……そういえば、3日後にいらっしゃるメイドさんたちの引き継ぎは、さんにお願いしたらどう?しもべ妖精は言葉がおかしいんですから、あれこれと生活習慣について教えてやるのは難しいでしょう」
メイドがくる……旦那さまのお屋敷に。
わたしは、どんな顔をすればいいのだろう。まだうまく納得しきれているか、自信がない。
まだわたしには、割り切る時間が必要なのに。
「わたくしでよろしければ……」
わたしがおずおずと言うと、旦那さまはわたしを、その灰色の瞳で一瞥した。
「いや、それには及ばない。メイドどもが勝手にやってくれるだろう」
「だめよ、わかりっこないじゃない。そんなことをいって、大切な家宝などを壊されたらどうするのよ。だめよそれじゃあ。全然だめだわ」
旦那さまは、なにか言おうとしたが、ナルシッサさまが絶対に引かない姿勢を見て、ため息をつく。そしてわたしに目をやった。
「……じゃあ、2日後の夜に来てくれないか。3日後の朝におまえの後輩がやってくるはずだから」
なぜ、こんなにお嫌そうなのだろう。わたしはなんだか、ショックだった。
「経験のあるお嬢さん方でございましょうか?」
「ああ。それに、純血の者だから、気心も知れるしな」
わたしは自然に頬笑んでいられたと思う。「さようでございますか」と言って、わたしは旦那さまを見上げた。
わたしは、お会いしなかったこの数日間ののちに、また旦那さまとわたしの間に隔たりが発生したことを知った……わたしは、初めてマルフォイ家にやってきたあの日、怯えがちに旦那さまを見上げたことを思い出した。いまのわたしは、そのわたしとまるきり同じなのだ……。
「かしこまりました。では2日後の夜にお伺いいたします」
「そうしてくれれば助かる。それと、そのとき、デュクシーもお返しいたします。デュクシーがいないうえにこいつまで不在なら不便でしょう」
「そうね……それがいいわね」
こうして話はまとまり、旦那さまはお帰りになられた。わたしはそれをお見送りして、また同じように糸紡ぎをするナルシッサさまのもとでご本を朗読しようとした。
「あのこ、たぶん結婚する気だわ」
奥さまはわたしに向って、続けて「うれしいこと。こういうのは、なんとなくわかるのよ。贈り物も考えておかなくちゃね」とおっしゃってから、わたしに朗読を始めるようにうながした。
わたしは、ある偉大な魔法使いの生涯を読みながら、内容が頭に全く入っていないことにすら気付かず、夢中で口を動かしていた。




ウィルトシャーの旦那さまのお屋敷に伺う日の夕方。
大粒の雨が降り、お屋敷の露台がしとどに濡れ、なにをしていても雨が屋根をうつ音が聞こえてくる。わたしは厨房の勝手口からパンをよこしに来てくれたパン屋の少年が、ひどくずぶ濡れなことを気の毒に思った。
旦那さまのお屋敷も雨がひどいのだろうか。雨の日は旦那さまは不機嫌になられるのだ。
わたしはこしらえた白身魚とあさりのシチューの鍋の引き継ぎをしもべ妖精にお願いして、ナルシッサさまとルシウスさまのいらっしゃるお部屋に向かった。
どうやら、雨の日に不機嫌になる気質はご両親さまより譲られたらしい。おふたりとも、なにをするでもなく、気だるげにお茶をしていらっしゃった。
いくらシャンデリアを灯そうと、灰色の影が差した部屋では、全員が顔色がすごく悪く見える。
、もう行くの?」
「ええ、さきほどデュクシーが戻りましたので、ウィルトシャーのお屋敷で仕えるものが誰もございませんので」
「なら、引き継ぎの件を頼みましたよ」
「かしこまりましてございます」
わたしが一礼したとき、それまで黙っていたルシウスさまが、「さん」とわたしを呼びとめた。
「これをドラコに持って行っておやりなさい、まだ冬は続くからな」
それは薄布に包まれたやわらかな生地のかたまりで、おそらくマフラーかなにかのようだ。わたしはお受取りをし、その場を失礼して、隣の間に控える暖炉へ向かった。
フルーパウダーを握る手が、わずかに震えるのはなぜだろう。
もう1年もお仕えしたお屋敷へ、いざ舞い戻るというだけのことなのに、なぜこうも緊張してしまうのか?
ほんとうは答を知っているけれど、わたしは自問せずにはおれなかった。
自答してしまったら、すべては、完結されてしまうのだ。


久しぶりのウィルトシャーの香り。森林の深い匂いに、わたしは何度も深呼吸する。ここでも雨が降っているので、水分によって蘇った植物と土の精髄が、屋敷の中にまで漂っているのだ。
わたしは霧雨の降る外を、回廊を歩きながら眺め、旦那さまの私室へ向かった。
「旦那さま、でございます、ただいままいりました」
扉を開けると、旦那さまはしばらく書き物をする手をやめず、黙って机に向かっておられたが、一段落を付けていすごとこちらへくるりと振り返る。旦那さまは、ますます大人の紳士になられたと、わたしは思った。離れていたのはこの数日の間だけなのに、残されていた少年の輪郭が、すっかり殺ぎ落とされたのをわたしは感じる。それは、わたしがいままで気付かなかった変化なのかもしれないが。
「うん、すまないが、軽食を用意してくれるか?それから、ぼくはお茶が飲みたい。おまえのハンプシャーの仕事ぶりを聞きながらお茶にしよう」
「かしこまりました、旦那さま」
厨房へ入ると、中はわたしが出て行ったまま、鍋の位置も変わらないで、そのままにされてあった。デュクシーが、きっと気を配ってそのままの位置に元通りにして行ったのだろう。わたしは、サンドイッチとスープとローストビーフを銀盆に載せて、私室へ戻った。旦那さまはやはりまだ、書き物を続けていらっしゃるところであった。
「旦那さま、お仕事をすこし休憩なさって、お茶にいたしましょう」
「ああ。これを書き終えてから」
旦那さまが羽ペンでかりかりと書いていらっしゃる音と、霧雨の降るさーっという音を聴き、わたしは心地よく感じた。この瞬間ばかりは、わたしは以前のわたし、こちらでお勤めしていた自分に還った気がしてくる。マルフォイ邸には、なんと美しい静寂が訪れるのだろう。まるでその場にいる者すべてをやすらげるため、時間が気を配ってじっとしているかのようだ。
雨が降る音にくわえ、こんどは、ぱらぱらと葉のしずくが滴る音もつたわってくる。わたしは、旦那さまの背中を見つめ、お茶の芳しい湯気の香りを楽しみ、いつまでもこうしていたいと思った。
旦那さまは、浅いため息のあとペンをペン立てに安置して、わたしのかたわらの長いすに腰をおろした。
「ハンプシャーはどうだ」
「ルシウスさまもナルシッサさまも、ほんとによくしてくださいます。お仕事があまりないので、骨を折ることはございません」
「そうか。おまえが幸せそうで安心した。おまえにはひどいことをしたからな」
わたしはぎょっとして旦那さまを見た。旦那さまがそんなふうにご自分を省みるなんて、いったいどういう風の吹き回しだろう。
わたしがそう思ったことを察してか、旦那さまは苦笑なさった。
「わたくしがお邪魔でございましたから、よそへおやりになさったのでしょう。そう殊勝ぶらなくても結構でございます、わたくしは……」
「まさか。おまえのためを思ってだ。ここへいたのでは、婚期を逃してしまう可能性もあるし、なによりくたくたになるまで扱き使われるからな」
わたしは、頬笑んだつもりが、苦笑いになっていることを知った。そして、くちびるを噛み、なぜこんなことをおっしゃるのだろうと思った。
「わたくしは楽しゅうございましたわ。わたくしの婚期をご心配なさる前に、ご自分のご心配をなさいませ。わたくしは旦那さまより若いんですもの。本当に楽しい1年でございました」
「………」
旦那さまは、お茶を飲みながら、隣に坐るわたしの顔をじっと見つめる。
それは、見詰めるというよりも、わたしを透かして別のなにかをぼんやりと眺めているような、そんな目つきだった。
「おまえを遠ざけて、そのままにしておくつもりだった。こんなかたちで、また同じ部屋にいることになるとは思わなかった」
「まあ、わたくしは、旦那さまのためでしたら……」
「そういうことではない。そういうことではないんだ」
旦那さまは、わたしの頬に手を伸ばし、そして途中でためらって、その手をわたしの肩にまわした。
わたしが驚きで、びくっと体を強張らしたことに、旦那さまはどうお思いになったであろう。だが、旦那さまはなんとも言わず、また眉一つ動かさず、無言で床に視線を落としている。
そして、一言、かすれた声で言った。
「こんなになにかに執着したのは、初めてだ」
「………」
わたしは、どんな顔をしているだろう。わたしは、自分の顔から力が抜けて、“ああ、そうなんだ”などと悠長なことを思った。旦那さまの、わたしの肩を抱く手が、そっと離される。そしてそれは、こんどこそわたしの頬に触れた。冷たくてひやりとした、細い指だ。それはわたしの胸をぞくぞくとさせる。あるいは、指先でなく、旦那さまの瞳かもしれない……。
「わたくしは、どうすればよろしゅうございますか?」
わたしは、震える声で、かすれる喉から絞り出した。こうなる瞬間を、わたしはずっと望んでいたような気がした。
「今夜は、ここにいろ」
旦那さまは、そうおっしゃって、わたしの頬にかかる髪を指ですくい、耳にかける。その冷たい指が、耳に触れて、わたしの顔が熱くなる。
「この部屋にいてくれ」
わたしは、「かしこまりました」とも、「承知いたしました」とも言わず、無言で肯いた。
それ以外の答を、わたしは思いつきもしなかった。