新しい年は、多くの人が清々しい気持ちで迎えただろう。だがわたしは何にも考えることができず、ぼんやりと床を見つめている。
わたしはすでにメイド服に着替えて、客人がお帰りになられた広間の、散らかった床を滑る魔法のモップの音を聞いていた。いま、酔いつぶれていた男性がお帰りになられたので、この屋敷にはすっかり元の通り、ナルシッサさまとルシウスさま、そして旦那さまだけになったわけだ。
さん、ここにいないでパーラーにいらっしゃい。こんなところは魔法の道具が片付けるわよ。お茶を飲みましょう」
すでに髪をほどき、しどけないナイトローブを纏った姿のナルシッサさまが、わざわざわたしを呼びに来てくださった。わたしは顔をあげ、広間を出て彼女の後をついていく。
窓が開け放たれ、寒いはずなのに、この高揚感は何なのだろう。ほとんど心地よいと言っていい冷たい風が、充満していたパーティの名残を洗い流すかのようだ。屋敷の廊下はいま、シャンデリアの灯りが消され、奥さまの持つ蝋燭の炎と、そして鈍くまたたく月光が、あたりをひそやかに優しく照らしている。わたしは自分の髪を風になぶらせながら目を細めた。
まだくちびるに、やけどしそうな熱が残ったままだ。


さん、こちらに掛けなさい」
パーラーに入ると、すぐにルシウスさまがそうおっしゃった。ルシウスさまは旦那さまとチェスをしながら煙草をくゆらせている。チェス盤のそばには、茶わんが4つ用意されていた。わたしは言われるがままに、ルシウスさまのお隣の席に腰をおろした。
「パーティは楽しかったかね」
「ええ。とても。使用人でなければ、ぜったい一生ご縁のない場所でございました」
「今夜は、ここに泊まっていきなさい。さんは、西の間で眠ってもらおう。ドラコは客室に行きなさい」
「わたしは、今夜はとっても疲れたわ。あなた、いつまでも子供みたいにそんな遊びなさらないで。そろそろ寝室に引きあげましょう」
「うん……そうだな」
ルシウスさまはチェス盤に最後の一手を押すと、立ちあがって、ナルシッサさまのか細い肩を抱いた。
「さて、わたしたちは眠ろう。おやすみ」
「おやすみなさいませ。本日はありがとうございました」
「おやすみなさい」
マホガニーの小百合の彫刻がしてある扉が、そっと閉じられる。旦那さまはかなり眠そうに、けれどもまだチェス盤を覗いたまま、右手で茶わんのある場所を探った。
、父上の席について父上の代行をしてくれ。どうも気になって眠れない」
「わたくし、チェスは苦手なんです」
「いいから」
「では……」
わたしはゆっくり考えながら、駒を動かした。旦那さまの駒を触る手は特殊だ。長い指の中に駒を握っていたかと思うと、もう次の瞬間はおくべき場所へおいている。しばらく、ことことと黒曜石と水晶の駒がチェス盤に置かれる音が響く中、わたしたちふたりは黙りこんでいた。
「ぼくの両親をどう思う?」
「……ルシウスさまとナルシッサさまは、お二方とも、たいへん魅力のあるお方だと存じます。人を惹きつける要素を充分にお持ちでございますね」
「そうか……」
旦那さまはそこで、次の手を考えるために眉をしかめる。
「じつは父と母が、おまえを雇いたいと言っている」
旦那さまはそうおっしゃって、ぐんぐん進行を始めた。わたしは、黙ってその有様を見て、自分なりに手を尽くした見たが、けっきょくだめだった。わたしは負けてしまった。
「それは本当でございましょうか……」
「どうもそうらしい。ここはしもべ妖精も雇っているし、それほどばかに大きな屋敷でもないし、母上は細かく指図なさるだろうから、おまえも楽になれるだろう」
わたしは、なにも言わず茶わんを取り上げ、温かなハーブティのもたらす安心感を大いに味わった。
「おまえはどうしたい?」
この部屋に入って初めて、旦那さまがわたしをご覧になった。
その瞳は、暗闇の間近で見た瞳と同じ、何か熱意がこもったもののように思われる。わたしは、なにも言えない。なにも言うことができないのだ。
「……旦那さまはどうお思いでございますか?わたくしをこちらへやってもよいと?」
やっとの思いで発した声が、あまりに引き攣っているのを知ると、わたしはどんどん自分が追い込まれていくような気がした。いまになってようやく、わたしの感情は正常に機能しはじめたのだ。
「おまえが望むならかまわない。父も母もおまえを可愛がってくださるだろう」
口付けなどしてしまったから、旦那さまはもう、わたしがお入り用ではないのだ。わたしは下を向いて、赤いハーブティの水面に映る、蝋燭の灯火の揺らぎを見つめた。
「わたくしがこちらへ参ったとしましたら、ウィルトシャーの旦那さまのお屋敷はいかがなされますか?」
「しもべ妖精とメイドを雇おうと思う。さいわい、純血の若い娘がふたり、ぼくの屋敷で仕えたいと申し出ている。しもべ妖精も何匹でも職を求めているし──
わたしは「さようでございますか」と震える喉を引き攣らせながら言った。旦那さまは、駒を白と黒で別けて木箱にしまい、真鍮の錠をおろして、「ああ」とおっしゃった。「その点はおまえは心配いらない」
わたしは、旦那さまの人生に、マッド・ブラッドが関わらなければよいと常々願っていたことを思い出した。
もう、そんないらない、必要のないことで我慢をしていただきたくない。だが、自分はどうなのだろう?わたしは、自分がマッド・ブラッドであることを、長い間忘れてしまっていた気がする。もちろん、その認識はあったが、強い自覚は伴っていただろうか?ほかのマッド・ブラッドはだめでも、自分だけは許されると思っていたのではないか?
わたしは、旦那さまをお健やかにしてさしあげたいと願いつつ、自分が旦那さまをそうではない方向へ導いていたのだ。旦那さまにその自覚があるなしに限らず、結論としてはそうなるのだ。
わたしはマッド・ブラッドのメイド。それ以外何者でもない。
「まあよく考えろ、おまえにはとてもいい話だ。必要なら縁談も持ち込んでくださるそうだし……」
「かしこまりました、旦那さま。わたくし、こちらにお仕えいたします」
わたしが素早く言いだすと、旦那さまはちょっと驚いたようにして、そして「そうか」とおっしゃった。
「では、とにかく遅いからもう休んだほうがいい。西の間とは、西の通路の一番奥だ」
「かしこまりましてございます。旦那さまももうお休みに……」
旦那さまは、わたしを見ないで、「ぼくはもうすこしここにいる」とおっしゃった。ソファとクッションの間から一冊の本を取り出し、その栞のページを開いて。
「おやすみ」
「おやすみなさいまし、では、失礼いたします」
わたしは、西の廊下を歩きながら、堰切ったように溢れる涙がやむのを、まばたきもせず待っていた。泣いたら、マスカラなんかが目の中に入ってくるので、ごしごし擦ることができない。
こうして悲しいと思い、苦しんで泣いているのは、旦那さまのためになにもできないわたし、旦那さまのお役に立っていると己惚れているわたしを、切り離すに必要な作業だ。
胸が詰まるような気持も、そうした不必要なわたしが、地団太を踏んでしがみつこうとしている、最後の抵抗によるものだ。
こうした涙は、流せば流すほどよい。うんと泣いてしまえば、わたしはわたしがなるべき女に近づけるだろう。それは、感情に振り回されず、てきぱきと仕事を片づけられ、主人に信用されるメイドだ。わたしはそうなるために、いまのわたしを棄てなければならない。
それに、泣いていられるのもいまのうちだけだ。夜が明けるまでに、わたしはすっかりわたしと決別してしまおう。
旦那さまに必要のないわたしは、わたしにもいらない存在なのだから。




「まあ、来てくださるの。よかったこと」
「ドラコは人遣いが荒いだろうから、大変だっただろう。ここでゆっくり丁寧に仕事してくれたまえ」
翌朝、朝食のお席で、ルシウスさまとナルシッサさまは喜んでわたしを受け入れてくださった。朝食はわたしがこしらえようと思っていたのだが、屋敷しもべ妖精たちにこぞって「さまはお客さまでございますです!」と言って、手伝わせてもらえなかった。
旦那さまはすこし遅れてやって来て、ルシウスさまに「遅いぞ、若い者がだらしなくするな」と言われながらお席についた。わたしは勧められてご朝食にご一緒させていただいたが、あんなに緊張してトーストを食べたのは初めてだ。きょうはゆっくりして、あしたから仕えてねと言われたので、あくまできょう一日は、わたしを客のように扱われるおつもりらしい。そんなことはしてくださらなくていいのに。
「きょうはドラコとウィルトシャーに戻って、荷物なんかを持ってきなさい。制服や部屋なんかは、こちらで用意しておこう」
「かしこまりました」
「じゃあ、行こうか……父上、母上、また寄ります」
「ほんとうに、もっとこまめに会いに来なさいよ。いくら忙しいからって。それじゃあさん、あんたもゆっくり荷造りしていらっしゃい」
「かしこまりました」
「ドラコ、このしもべを一匹連れて行きなさい。これは中でも優秀なやつだ。さんが行ってしまって、すぐ屋敷に奉公人が来るわけじゃないだろう?奉公人が来たらこれを返してくれ」
「ええ。じゃあ、しばらくお借りします。おまえ、名前は?」
しもべ妖精が、突然のことにびっくりしながら、「わたくしめはデュクシーでございますです!ドラコさま!」と言って、嬉しそうに笑った。わたしと旦那さまとしもべ妖精は、来たときと同じようにフルーパウダーで暖炉の中からウィルトシャーに帰った。
来たときはあんなに当然のように旦那さまのおそばにいたのに、いまはしもべ妖精が、旦那さまのおそばにお仕えしている。わたしは、もう、気安く旦那さまに話しかけたり、毎日のようにそのお姿を見ることができないのだ。ああ、きのうと比べてなんという違いだろう。
「旦那さま、お茶を……」
「いや、ぼくはこれから仕事で出かけなければ。すまないが、荷造りを終えたら自分ひとりでハンプシャーへ向かってくれ」
旦那さまは、そう言うと、お着替えを済ましてお急ぎのご様子で出て行ってしまわれた。「デュクシー、の荷造りを手伝ってやってくれ」と言い残して。
「いってらっしゃいませです!さて、さま、荷造りをお手伝いいたしますです!そのまえにお茶をいただきますでございますか?!」
「荷造りと言っても、すぐに終わってしまうの。わたしは、とても身軽にここへやってきたものだから。あなたに、旦那さまの好みのソースや味付けを教えなくちゃね」
「はい!デュクシーめはがんばりますです!お給金が、デュクシーはふつうのしもべ妖精よりももらっているので、とってもよく働き者なのです!」
「そうなの。じゃあ、安心だね」
わたしはそっと笑って、とりあえず自分の部屋へ向かった。
鏡や窓のある、かわいい部屋なのに、ひどく味気のない、寒々とした様子がわたしの眼前で広がっていた。初めてこの部屋を案内されたときは、緊張のあまり頭の中が空っぽだったのに、いまはいろんな考えがまとまりなく繰り返されている。
衣装箪笥の中には、すこしの綿の洋服があるだけで、あとは全然使用しなかった杖や、読まなかった本なんかがあるばかりだ。
荷物をすぐ詰めてしまうと、そこに掃除道具に魔法をかけ、わたしは厨房で旦那さまのお好きな食べ物なんかを説明した。
「旦那さまは、あんまりたくさん味付けするのをお嫌いなのよ。素材の味を大切にしたお料理を好まれるの」
「かしこまりましたです!」
「トマトは皮を剥かずに焼いてくださいね。あと、お魚料理はレモンを忘れないで。パンは……」
ひとつ話すたびに、わたしの知識は外に流れ、わたしには無関係になってゆく。すべて話し終えるのを恐れていたが、ついにわたしは「以上です」と言った。
これでわたしには、旦那さまにまったく必要はなくなった。あとはこのしもべ妖精が、万事うまくやってくれるだろう。わたしはもう、このお屋敷の何にもお役に立つことはないのだ……。
わたしは、荷物の詰まったボストンバックを提げ、一階をぶらぶらと歩いた。
高い天井は、手が届かないので、モップを持って四苦八苦していると、旦那さまは心底馬鹿にするように「魔法でやればいいだろ、魔法で……」とおっしゃっていた。でも、窓を磨くのは手でやるのが好きで、よくそうしながら、切子細工のしてあるサロンの窓べで緑豊かな庭園を眺めていた。階段にかけてある肖像画には、銀髪の美しい老夫人がいて、掃除しているわたしに「ほら、もっと腰に力を入れなさい!」など横やりを入れてくるので、いつも閉口させられた。テラスで本を読む旦那さまは、穏やかな陽だまりの中で眠そうに眼をとろんとさせているので、なんだか隙があるようで、お茶を用意しているのが楽しかった。このカーテンのほとんど工芸品と言っていい見事な刺しゅうが好きだった。旦那さまを玄関までお出迎えして、ご一緒に歩くこの廊下が好きだった………
この屋敷で、わたしはなんと豊かな日々を送っていたことだろう。
失われてその大切さに気付く、ということはままあるが、わたしは毎日ありがたみを感じていたものだ。この屋敷の美しさに。旦那さまのお人柄に。
鞄を下げ、外套をまとったわたしは、はじめてここへ来たときとまったく同じなりで、同じように馬鹿みたいにあちこちを仰ぎ見て歩いている。
わたしを招き入れた旦那さまは、不機嫌そうでこわかったけれど、わたしにはいっさいの関心を抱いていないということがよくわかったので、逆にやりやすかった。わたしに関心がないんなら、あれこれ干渉もされないだろう。だって独身の男性だもの。気にされてないなら、好きにやってしまっていいんだ。
最初はそうだったのに、いつから旦那さまは、わたしに優しくしてくださるようになったのだろう?
ここにやって来たときとまるで同じだけれど、違うことは、そばに旦那さまがいないこと、そしてわたしが出ていくということだ。


きっと、ルシウスさまとナルシッサさまのお伴か何かで、運がよければここへやってくることはあるだろう。
また、旦那さまがルシウスさまとナルシッサさまにお会いしに、ハンプシャーへお出でになられることもあるはずだ。
それらのときに、きっとまたお会いすることはできる。
そのときのことを期待して、わたしはいまから、この屋敷を出ていくのだ。