わたしは、こんなこともあろうかと買っておいたモスリンの衣裳を、箱の薄紙の中から取り出した。純血のお金持ちのお宅で働くなら、持っていても損はないと思ったのだ。それに、ふだんメイド服を着ているので、新しい流行の洋服を買わずに済むから、一着くらい最高級のものを持っていても罰は当たるまい。
。用意はできたのか?」
扉の向こうのじれったそうな声に、わたしは慌てて、衣裳を箱の中に押し戻した。わたしはやっぱりメイド服を着ている。黒いスカートの裾がたっぷりの布地でできているワンピースに、肩にフリルのついたエプロンに、白い質素な小さい帽子。革の不愛想なブーツ。ポケットの中にはコインケースが入っていて、さっきそれで牛乳屋にお金を払ったばかりだ。
わたしは、衣裳と刺繍のしてある華奢な上靴、耳飾りなどを鞄に詰め込み、「ただいままいります」と言って立ち上がった。
いまから、ハンプシャーのルシウスさまとナルシッサさまのお屋敷に向かうのだ。


「なんだ、その衣裳で行くのか?」
「ええ。だって、しもべ妖精たちにお料理を教えてほしいと言いつかっているんですもの。パーティが始まったら、ドレスに着替えます」
「ふうん、じゃあせいぜいうまくやってくれよ」
旦那さまは、古風な型の衣裳を着て、ますます洗練されている。腰のサッシュや、ふところから覗く懐中時計の鎖や、ポケットチーフの光沢のある模様など、なんて美しいのだろう。しかも、そのうえで気だるげに目を伏せていらっしゃるので、わたしが画家であったならと悔やまれるほどだ。
「旦那さまは、ご一曲お相手をしてくださいますでしょう?」
「なんでぼくがマッド・ブラッドなんかと踊らねばならないんだ。よっぽど美しいっていうんならともかく」
「わたくしがマッド・ブラッドであることは、わたくしにはどうしようもないことではございませんか。本人の努力ですらどうにもならないことは、深く触れてはいけませんよ」
「ばかだな」旦那さまはくちびるの端でわずかに笑った。「どうにもならないからこそ純血に価値があるんだ」
列車と迷って、結局わたしたちはフルーパウダーを前に、暖炉の前に立ち尽くした。
わたしはフルーパウダーほど楽なものはないと思っているのだが、旦那さまをはじめ身分ある方々はあまり好んでお使いにならない。お衣裳が汚れてしまうし、かがまなければならないので、たいていは魔法の乗り物なんかのほうがいいそうだ。
だが、旦那さまは、「メイドなんかと外を歩くわけにはいかない」と言って、しぶしぶフルーパウダーをお手に取った。
「ハンプシャーのお屋敷にお邪魔するのは初めてです」
「あたりまえだ」
わたしたちは、ハンプシャーのマルフォイ邸と伝えて、暖炉の中に飛び込んだ。炎の奥で、白い花を敷きつめたような絨毯が見えた。
「あら、いらっしゃい」
暖炉の向こうでは、ナルシッサさまがお茶を飲んでいらっしゃるところであった。彼女は、突然現れたわたしたちにたいそう驚かれたようだ。旦那さまのあとに続いて、暖炉から出てくると、ミルクの甘い香りがふわりと顔を撫でた。
「こんにちは、母上。パーティのためにやって参りました」
「パーティは10時からだから、それまでゆっくりしなさい。さん、よく来てくれましたね。厨房に行って、ワイン・ソースの作り方を指示してくれる?」
「かしこまりました、奥さま」
「とにかくふたりとも、先ずお茶をおあがりなさい。お茶はまだ済ましてないんでしょう」
わたしと旦那さまは、言われるがままに席に着き、お茶をいただいた。テーブルの上では、苺の天使のパイやマフィン、サンドイッチなどが、3段スタンドに並べられている。ナルシッサさまはスコーンにクリームを塗り、旦那さまはテーブルの脇に畳まれていた新聞を取り上げた。おふたりとも、淡々とお茶の時間をそれぞれ楽しんでいらっしゃるようである。
わたしは、自分がお茶をするときは、たいていおしゃべりして、目の前にある食べ物を好きなだけ食べるので、お茶と少しのスコーン、そして沈黙をこよなく愛する旦那さまのティー・タイムが不思議だった。だが、いま、ナルシッサさまもまったく同じようにしていらっしゃるので、この沈黙と共有するティー・タイムは、マルフォイ家ならではのものなのだと知った。
「ごちそうさまでした、では厨房におりますので、なにかご用があればお申し付けくださいまし」
「一杯だけでいいの?じゃあ、よろしくお願いしますね」
「かしこまりました」
旦那さまはちらとわたしを一瞥しただけで、なんとも言わなかった。
わたしは、花とレースと陽光のあふれる談話室を出て、はっとした。厨房は、どちらへ行けばいいのだろう。
だが、廊下などを見渡すと、さほど広いお屋敷ではないようだ、とわたしは思った。わたしが出た廊下は、黒い床に白の絨毯が敷いてあり、連続窓には濃いブルーと金糸で縁取りのしてあるカーテンが、両端で綺麗に結わえられている。水晶のシャンデリアが、陽光を含んで、虹色の光を壁紙に投げている。
さして大きなお屋敷ではないが、調度品の数々のどれもが、より優れた審美眼で選び抜かれたような、凡人にも素晴らしいものとわかるものばかりであった。わたしは窓の外に目をやった。青々としたゆたかな木々の葉が、そよそよと風に揺れている。田園風の暖かな可愛い中庭の中央で、噴水の水がきらきらと輝いている。
廊下の壁には、4つのチークの扉があり、それをゆきすぎると階段があった。階段は広々としていて、磨きこまれた大理石の手すりがついている。わたしはそれを下り、正面に広がる左右へ通じる廊下を前に、さて、どちらへ行こうと考える間もなく、まっすぐ右へと向かった。というのも、右のほうでがちゃがちゃと食器を鳴らしている音が聞こえてきたからだ。
厨房の入口からは、ものすごい湯気がもくもくと出ているし、いろいろな肉の焼ける匂いが伝わってくる。わたしは、おそるおそる中を覗き込んだ。
中は、ものすごい戦場であった。3匹のしもべ妖精が、魔法の調理器具に振り回されながら、必死で格闘をしている光景が眼前に広がっていた。
わたしは、これからやらなければならないことに怖じ気づきながら、ぎゅっとエプロンの紐を縛った。




。もう厨房はいいから、そろそろ用意をしろ。メイド服でゴイルと踊るわけにもいかないだろ」
あらかた料理が済んだころ、旦那さまが厨房までいらっしゃった。時計を見ると、もうすぐ9時になろうとしている。
あんなに澄み渡っていた青空も、いまは深い紺の空になり、金色の雲が月光を浴びて漂っている。盛りつけに夢中になっていたので、すっかり時間が経っていたことに気付きもしなかった。
「さようでございますわね。では、婦人室をお借りして着替えを済ませてまいりますわ」
「パーキンソンが来ているから、彼女に着替えを手伝ってもらえ。婦人室は二階に上がってすぐのところだ」
実際に、婦人室にはパーキンソンさまがいらしていた。旦那さまは、「10時になったら広間へ」と言い残し、廊下を通り過ぎて行った。
「久しぶりね、。着替えを手伝ってあげるわよ。そのメイド服、すぐ脱いだほうがいいわ」
「ありがとうございます、パーキンソンさま。でも、ひとりでも大丈夫ですわ」
「あんた魔法もろくに使えないんでしょう?どうやって後ろの釦を留めるのよ。いいから、はやく脱いじゃってよ」
パーキンソンさまは、黒い豊かな髪を結いあげ、そこに真珠の髪飾りをいくつも差していらっしゃった。白い絹の琥珀織のドレスは、ウエストがうんと細く絞ってあって、華奢な彼女を妖精のように見せている。わたしは、そんな可愛らしいお方に着替えを手伝ってもらうのは、すごく恥ずかしいと思った。
「これを着たら、お化粧もしなきゃあね」
彼女に助けられて、わたしはドレスを頭からかぶった。パーキンソンさまは、わたしの背中のリボンを結びながら、「マルフォイ家の生活はどう?」とおっしゃった。
「ずいぶん、なれましたわ。もう直に1年が経ちますもの」
「あんたがひとりでやってるんじゃ、ほんとに大変ね。ドラコはもっと雇えばいいのに」
「旦那さまがご結婚なされば、もっと使用人も増えることかと存じます。それに、ほとんど外出されているので、わりと楽なときもございますの」
「さあできた。こっちを向いて」
彼女が黒いつぶらな瞳でわたしを全身眺めるので、わたしは非常に恥ずかしかった。あんまりじろじろと見つめられると、どうしたらいいのかわからなくなる。
「ねえ、この髪型にしましょ。それでリボンで結った部分を巻きつけて……」
「え…ええ、なんでもかまいませんの、わたくしは……」
パーキンソンさまは婦人雑誌を見ながら、「このモデルの横顔はあんたに似てるから、あんたも同じ頭にすれば似合うはずよ」とおっしゃって、書いてある呪文を唱えはじめる。髪がしゅるしゅると動いて、一つの塊にぎゅーっと結ばれていく感触がする。わたしはびくびくしながら、頭皮が痛いなあとか、毛さきが当たってこそばいなあとか、そんなこと考えつつ終わるのを待った。
「さあ、できた。あとは、お化粧ね。チークをうんと濃くしなきゃ」
やわらかいリスの毛のブラシが、顔中を撫でまわしていく。わたしはそこからお化粧が終わるまで、ずっと目を閉じていなければならなかった。「動いたらたいへんなことになるわよ」と言われたので、息までも止めているありさまだった。
「お化粧って、魔法でやると大変なんですわね」
「慣れたらどうってことないわ。手でやったら、マスカラがまぶたに付いたりしちゃうでしょ?チークが左右非対称だったり。魔法だとその点、完璧にやってくれるものね」
「わたしもその呪文を習得しますわ」
「それがいいわ」
お化粧もすっかり済んで、ブルーダイヤの耳飾りを付けていると、パーキンソンさまは窓の外に目をやって「そろそろ客もやって来たわねー」とおっしゃった。わたしも彼女のうしろから覗きこむと、玄関前にたくさんの魔法馬車が横付けされているのが見える。そしてそれを、旦那さまとルシウスさまがお出迎えしていらっしゃった。
「あの女も来たのね」とパーキンソンさまはつぶやいた。
青紫の衣裳をまとった女性が、ある紳士の腕を取って玄関へ入ってくる。わたしはパーキンソンさまの冷めた横顔と、その女性を不思議に思いながら交互に見た。その女性は、華のある美人ではないが、つやつやした肌や整った顔立ちをしていて、聡明そうな笑顔を浮かべていらっしゃる。
パーキンソンさまは彼女が見えなくなってもそこを見つめていた。そして言った。
「ドラコはまだ、あの女と続いているのかしら?」




パーティが始まり、楽士たちがカドリーユのための音楽を奏ではじめる。テーブルには、わたしとしもべ妖精でなんとかやり遂げた料理の数々が、シャンデリアの輝きをうけて並んでいる。
さん、パーキンソン」
ゴイルさまが、向こう側からおいでになった。わたしとパーキンソンさまは、おしゃべりを中断して彼を見た。
「こんにちは、ゴイルさま」
「ひさしぶりね、ゴイル」
旦那さまは遠くで、老齢の紳士となにかを話していらっしゃる。ルシウスさまとナルシッサさまは、ご来客の対応にお忙しそうであった。お客の数は、60はあろうか。広々としたホールが狭く感じられるほどだ。
お料理が少し足りないかもしれないとひやりとしたが、どなたもあまり召し上がらないらしく、ケーキのテーブルを陣取った中年のご婦人たちがいらっしゃるだけだ。
楽しげなステップのダンス風景は、女性のドレスの裾がお花のように広がって、見ているだけでわくわくしてくる。
この場にいることができて、わたしはなんて幸運なのだろう。
「ワルツが始まったら踊りましょう」
「ええ、もちろん、喜んで。下手ですけれど」
「なに、ぼくも下手だし大丈夫ですよ」
「あたしもドラコと踊ろうかな。学生時代は、ドラコのダンスのパートナーはいつもあたしだったのよ」
「旦那さまとパーキンソンさまのペアは、たいへんお美しい光景でしょうね。見ることができて嬉しゅうございますわ」
そんなことを話していると、旦那さまが踊りはじめるのが見えた。ペアの女性と踊っていたと思ったら、次はペアを交代して順々に移動していく忙しいダンスだ。だが、旦那さまはくちびるの端でそっと微笑していらっしゃるだけで、優雅そのものといった具合であった。
旦那さまはブロンドの髪の女性の次に、青紫の衣裳の女性の手を取った。わたしは、旦那さまの表情がわずかに強張ったのを見て、おや、と思った。そしてその理由が、女性にあるのだと気付いた……彼女はさっき、婦人室から見ていた、パーキンソンさまのおっしゃっていた女性であったのだ。
しかし旦那さまの顔にさっとよぎった強張りは、すぐにかき消され、すぐ柔和な微笑に取って替えられた。
「あの……あの女性は旦那さまの……」
「そうよ。もう切れたのかと思ったけれど、まだ続いているのかしら?はなにか知らないの」
「いいえ」と言って、わたしは口を噤んだ。
「いずれにせよ、はやく切れちゃったほうが傷は浅いのにね。どうせ結婚できないんだもの、あのふたりは」
「なぜでございましょうか?」
「あの女が、ほかの男の未亡人だからよ。若くしてね」
わたしは、ふと、ルシウスさまとナルシッサさまに目をやった。おふたりとも、旦那さまと青紫の衣裳のひとが踊っていらっしゃるのを、無表情で見つめていらっしゃった……。
「おじさまとおばさまも、彼女を招待しなければいいのに。たぶんお気付きでしょうよ、あのご様子じゃね」
ゴイルさまはじっと黙っていたが、飲み干したグラスをテーブルのわきにやると、「ドラコにすっかり任すおつもりなんじゃねーかな」とおっしゃった。
「おじさんとおばさんは、気付いてるけど、息子を信じたいんだろうよ。そこまでばかはやらかさないだろうってさ」
「寡婦とはいえ、付き合ってる時点でとっくにやらかしてると思うわ。ドラコってときどき、恐ろしくお馬鹿になるんだもの」
わたしはなんとか話題を変えたいと思い、「お料理をおとりしましょう」と皿を手に取る。だが、ゴイルさまは、「きょうは給仕はいいよ」とおっしゃると、わたしの手を制した。
「それより、踊ろう。ワルツが始まるから」
「ええ……」
わたしはゴイルさまと一緒に、ゆっくりと踊りはじめた。硬いがっしりした手が、わたしの手をそっと握っているので、わたしはなんだかじぶんがものすごく華奢だと思われているような気がしてくる。わたしたちは、おたおたと踊っているが、笑顔が絶えなかった。わたしたちは、自分たちのダンスの下手さを笑って楽しんでいた。ゴイルさまには、そうさせる魅力があるのだ。
「パーキンソンとドラコは、ダンスが上手だなあ」
わたしとゴイルさまは、くるくる回りながら、少し離れたところで踊っている旦那さまとパーキンソンさまを見た。おふたりは、静かに、物音も立てず、優雅な身のこなしで踊っていらっしゃる。なにかをささやきあったり、談笑したりしていらっしゃるその光景は、昔馴染みの級友というよりは、ご夫妻のように見えた。おふたりがご結婚なさったら、どんなにいいだろう。パーキンソンさまほど旦那さまにピッタリなお方はいらっしゃらないようにわたしは思う。
わたしは、なんとなく旦那さまの恋人だという、あの青紫の衣裳の女性を気に入らなかった。生意気で僭越なことだが、わたしの胃の中にあるときどきむずむずするものが、彼女を見ていると動き出すのだ。要するに、彼女が年上のようで、しかも結婚なすっていて、聡明そうだがものすごい美人ではないことが、わたしの気に入らないのだろう。旦那さまには、最高に素晴らしい、非の打ちどころのない女性がいいと思った。あのお方は、整った顔立ちをしているが、地味で質素に見えるし、旦那さまとは見劣りしてしまう。……
わたしは自分が、ものすごく醜いことを考えていることに気付き、はっとした。
こんなふうに思うのは、いけないことだ。旦那さまの愛したお方なのだから、きっと素晴らしい女性なのだ。わたしなんぞがあれこれ思っていいお方ではないのだ。
「どうしたんですか?」
「いいえ、なんでもございませんの」
一曲終わって立ち止まったとき、向こうのほうから、ピンクの衣裳を着た若い女性が、こちらへやってきた。
「グレゴリーさん、ごきげんよう。よかったらご一曲願えますか?」
「おや、お久しぶりです。さん、このお方はぼくの従妹なんです」
「こんにちは。では、わたくしはあちらへ行っておりますわ」
邪魔をしてはならないので、わたしは急ぎ足で人垣をのがれ、露台のそばで立ち止まる。
振り返ると、旦那さまはまた別の女性と、パーキンソンさまも別の男性をお相手していらっしゃる。わたしは、いすに腰を下ろし、体を休めながら、黄金色のシャンパンを一杯いただいた。パーティホールはすっかりうちとけた人々のステップでいっぱいになり、楽士たちの技術もいよいよ脂がのっている。みなが、踊りとアルコールに頬を染め、香水の匂いを撒き散らし、華やかな衣装や革靴を擦らせている。
わたしは、このパーティに参加できて幸せだが、メイドとしてお給仕している立場なら、どんなによかったろうと思った。
こんなふうに、人目を逃れるように、壁際でじっとしているのは、なんだか疲れてくる。寂しいとか、そう言うのではなくて、ただ自分がマッド・ブラッドの小娘に過ぎず、この場の空気に馴染めないでいるという実感が、重く全身に圧し掛かってくるのだ。


ワルツが終わり、むこうで中年の紳士と話をしていた旦那さまが、ちらとわたしに目をやった。
それまでぐだぐだに疲れを感じて、いすに寄りかかっていたが、わたしは急いでしゃきっと姿勢をただす。旦那さまが、人垣をわけてこちらへやってきたからだ。
「一瞬誰だかわからなかった。なるほど、女は変わるもんだ。おまえも一応女だったんだな」
「旦那さまもいつもより素的でございます」
「顔色が悪い。疲れたんだろう、慣れないこと続きで」
旦那さまはそうおっしゃると、わたしのとなりに腰をおろした。いすに坐っていると視界が下がるので、この華やかな世界がまるで映画のように思われる。空気がむっと熱して、じゃ香と白粉とお酒の匂いで満ちているし、シャンデリアの金色の輝きがあたりをまんべんなく照らしているので、このホール全体がシャンパンのグラスの中にあるようだ。
「楽しんでいるか?」
「ええ。とても。でも、皆さま体力がございますね。わたくしはもうすっかりばててしまいました」
「それはおまえが、きょうずっと厨房で仕事をしていたからだ」
旦那さまが、そんなふうに気遣いの言葉をおかけになるなんて、どういう風の吹き回しだろう。わたしは軽く笑って、旦那さまを見た。旦那さまもわたしを見ていた。わたしとは反対の位置にあるてすりに頬杖をついて……。
「そういえば、旦那さまの恋人をみました」
話題を変えようとして、地雷を踏むことは、しばしばあることだが、わたしにはその頻度が多い気がする。
わたしは口を閉ざして真っ青になった。旦那さまは、逐一わたしをじろじろと眺めていたが、テーブルのグラスをとるためにあちらに目をやった。
「あの女性とはもう終わった。イヴの晩にすべて」
「………。」
「パーキンソンやゴイルに訊かれたんだろ?そう答えておいてくれ」
旦那さまは、グラスを手にしても、ずっとむこうを向いていらっしゃった。長い睫毛が、生白い素肌が、プラチナブロンドの髪が、まばゆい幽かな光をまとっているようだ。わたしは、無言で旦那さまを見つめた。もうわたしの顔は青くはなかった。


「それでは今年最後のダンスをどうぞ」
誰かの声が聞こえると同時に、ハープシコードの調べが、ゆっくりと暗い曲調で流れはじめる。
照明は落とされ、あたりはうす暗い闇に包まれたので、わたしは停電したのかとぎょっとした。よく考えれば電気なんて使われていないのだけど。
そして暗い天井に、星空がぱっと浮かび上がり、ホールの人々は色めき立って、上を見上げる。わたしがその光景に呆然としていると、旦那さまは暗闇の中で、「カウントダウンが始まるんだ」とおっしゃった。誰か酔っぱらったひとが、大きな声を出して、それにつられて口笛を吹いたりはやしたてたりするひともいた。
すぐさままわりはみんなペアになり、坐っている人なんて誰もおらず、ゆっくりと寄り添って踊りはじめる。旦那さまは深くため息をついて、「仕方がない、踊るか」と、疲れ切った様子で立ち上がった。
「わたくしはマッド・ブラッドでございますが、よろしゅうございますの?」
「ああ、ほんとうに嘆かわしいことだ」
わたしと旦那さまは立ち上がり、手と手を取り合ってまわりと同じように寄り添った。まわりは、みんな、ふたりだけの世界に入りこんでしまったみたいに、ひそひそと囁きあい、語り合っている。旦那さまのお顔が、わたしの耳のあたりにあるので、なんだか落ち着かない気持ちになってくる。
「それでも踊ってくださるってことは、わたくしもすこしは美しくなれたということでございますか?」
おどけてそう言うわたしに、旦那さまは鼻で笑って無視をした。
本当は旦那さまだって、マッド・ブラッドがすでに無視できない存在であることは、とっくにご存知なのだ。あきらめていらっしゃる。ときには仕事の付き合いでわたしのような女と踊らなければならないことも。
それをわたしにはどうしてさしあげることもできない……だがわたしは、旦那さまの生涯に、マッド・ブラッドが関わらなければいいと思った。旦那さまがお健やかに過ごすために、わたしのような人間は邪魔でしかない。日々理解を深めようとなさる旦那さまが、おいたわしくて仕方がなかった。
「5、4、3、」と楽士の一人がカウントダウンを始める。わたしと旦那さまは、まわりのみながそうするように耳をすました。
「2、1」
魔法で仕掛けられたクラッカーや小さな爆発薬が、空気中で虹色の光をはじけさせる。わあっと歓声が上がって、室内にこもっていた熱気はますますその温度を高めたようだ。
「新年おめでとう」「新年おめでとう」とみなが口々に言い合い、爆発で一瞬明るくなった室内は、また薄暗くなった。
みなは、自分のペアと新年を祝って、せっぷんをはじめる。わたしはそれを見てもじもじしながら、旦那さまに「新年おめでとうございます」と言った。暗くてよかった、顔が赤いのが自分でもわかるから。
まわりが口付けをしているのを、旦那さまは冷たく一瞥して、その視線をわたしに向けた。まだ残っていたらしい爆発薬が、ぷすんと間の抜けた音を立ててしぼむのを、視界の端でわたしは見ていた。
「今年が旦那さまにとってよいお年になられますように……」
「新年おめでとう」
旦那さまのお声は、こんなふうだっただろうか?
そうささやいた旦那さまの声は、なにかぞっとさせるような、冷たくて掠れたような感じがした。しかも、こんな間近で旦那さまのお声を聞くことは初めてなのだ。
まわりが、まだゆっくり踊りながらキスしているので、目を閉じている人々がぶつかりあったりしているが、そんな野暮なことは気にしてはいけないらしい。わたしが隣の男性と肩がぶつかったので、旦那さまはそっと体を動かして、わたしを空いたスペースのほうへ移動させる。
そのときに旦那さまが、やや顔を近づけたので、ああ、わたしはキスをするのだと思った。わたしは目を伏せ、触れやすいように顎を上げる。そして、しっとりとやさしくくちびるが触れたときに、ようやくわたしは目をつむった。くちびるは、一度わたしのくちびるをついばんでから、そっと離れた。わたしたちは見詰めあった。
ほの暗い中でも、旦那さまの瞳は上品なグリニッシュ・ブルーをしているのがわかる。まばたきをするのが怖くて、もういちど目を閉じたらなにかが起こりそうで、わたしは目を開けたままじっとした。
この瞬間は、一言もしゃべってはいけないような、神聖ささえ感じられたのだ。
そして旦那さまが、また頭を下げてわたしのくちびるにせっぷんする。今度は、しばらく離れなかった。わたしは旦那さまの襟をかきむしるように撫で、旦那さまはわたしの体を強く抱きしめていた。
わたしたちは、まるでそうしなければ死んでしまうかのように、たがいのくちびるの奥に呼吸を求めるように、むさぼるようにせっぷんした。