わたしの手をこうしてマルフォイが取ったり、わたしの腰に手を置いたり、マルフォイの吐息を耳元で感じる日が来るなんて、まったく夢にも見なかった。 そしてわたしはマルフォイの胸に手をやり、不機嫌そうなマルフォイの顔が間近にあるのを知っている。 広々とした部屋にふたりきりで、古典的なピアノとヴァイオリンの旋律を頼りにしながら……。 「この下手くそ!」 マルフォイが突然音楽を消すと、わたしを突き放して睨み飛ばした。 「教え方が下手なんじゃないの」 「ぼくを誰だと思ってるんだ、マルフォイ家の嫡男だぞ。グリフィンドールの、最低下層でうごめくしかできないおまえが、偉そうな口をきくな。貧乏人め」 「あんたにそんな価値があったなんて知らなかったなあ、わたしにはどうでもいいことだもん。あんたが親の権力で威張ろうが、猿山の大将になっていようが、わたしにとっちゃあんたはかわいい愚かなフェレットちゃんでしかないの」 わたしが思いどおりにいかないことに加え、こんな態度までとられたことに、マルフォイは目を細めて青筋を立てた。 わたしは、ついいつものように言い返してやったことにはっとしたが、もう後の祭りであった。謝るなんてグリフィンドールに誓って出来やしない。 マルフォイはわたしに、ダンスを教えようとしてくれているのだ、まったく空から箒でも降りかねない事態だけれど。 「もういい。おまえのような恩知らずは初めて見た。ぼくは図書室に行って、おまえをガマガエルに変身させる呪文を調べてくる」 「……そうすれば?わたしもちょうどフェレットをほしいと思ってたし」 「なんだってそんな減らず口しか叩けないんだ。まったく、貧乏じみてるくせに可愛げもない。いいとこなしだなおまえ」 「わたしの美点は、わたしの好きな人にしか見せないことにしているの」 「こんなに腹の立つ女は初めてだ。だからいやだったんだ──こんな馬鹿げたレッスンなど」 深い溜息を吐くマルフォイを前に、わたしは居心地の悪さを感じた。 使われていない音楽室は、魔法の蓄音機と、破れた埃よけの掛け布で覆われたピアノと、横倒しになった木のいすが一脚あるだけで、がらんとした空間だ。 このあたりの廊下は人気が少ないので、いつも普段耳にしている、さざめく笑い声や足音が、いっさい届いてはこない。なんだか、変な感じがした。無数の生徒がひしめきあって遊んだりしているのに、その気配すら伝わってこないのだ。まるで、この部屋だけすっぽり切り取られて、なにもない空間に置き去りにされた気がした。 「やめる?やめたかったらやめてもいいよ、よく考えたら、あんたにここまでしてもらう義務なんかないような気がするし」 「仕方ないだろ、ホグワーツを代表して、ぼくたちが選ばれてしまったんだから。おまえのその醜態はぼくのものでもあると見なされる。まったく悪夢のような話だ。いまだにおまえが純血だなんて信じ難い」 「べつにわたしが下手でも、あんたのせいにはならないんじゃないの?つまづくわたしを皆と一緒に笑えばいいじゃない?」 「ふん、ばかめ。おまえがもたつくとぼくまで下手に見えるんだよ。ダンスというものはそう言うものなんだ」 「………かっこつけで見栄っ張りなんだから。わたしは別に気にしないけどなあ」 「ぼくが耐えられない」 「わたしそんな下手?あんた以外に言われたことないけど」 「グリフィンドールの連中は全員下手だからな」 マルフォイはやれやれ、といった具合に肩をすくめる。 「じゃあ、まだ続けるの?わたしはどっちでもいいんだけど……」 「おまえに決定権なんかあるわけないだろ。とにかく、そのよろめく足元をなんとかしゃんとしろ。背筋を伸ばしてくれ」 「う……わ……わかった」 蓄音器にふたたび音楽を入れ、マルフォイがぐいとわたしを引き寄せた。わたしが体勢を整える前にステップを始めだすので、わたしはよろけて、マルフォイに「足元!」と言われる破目になった。 「仕方がないじゃない、急なんだもの」 「しゃべるな。音楽を聴いて覚えるんだ」 「あんただってしゃべってるじゃん」 「ほら、黙れったら」 「………」 わたしがもたもたとステップを踏んでいるので、マルフォイは何か言いたげに口を開いたが、浅いため息を漏らして飲みこんだようだ。 自分のステップを見下ろすために、自然とマルフォイの肩に額をあずけるかたちになってしまうのだが、マルフォイはなんとも言わなかった。きっと嫌悪感で体がむずむずしているけれど、大衆を前に屈辱を味わうよりはましだとでも思っているのかもしれない。こいつ、無駄に完璧主義なところがあるんだなあ……。わたしがマルフォイなら、いやな女なんて絶対に関わってやらないけれど。 「足元ばかり見るな。体で覚えるんだ。そっちに集中しているせいで、ほかが留守になっている」 「だって足元見ないとあんたを踏んじゃいそうなんだもん」 「べつにいいからきりっとしとけ。ぼくがおまえに踏まれてたまるか、よけてやるから大丈夫だ」 「わかった……」 「痛いだろ!どこ見てるんだ、踏んでる!」 「………あんたモテないでしょ」 「ほっといてくれ。それは今関係ないだろ」 「わたしはこう見えても結構モテるのよ、マルフォイ」 「本当に心の底からまったく不思議な現象だな、それは」 足元を見ないで踊るのは、目が回りそうな行為だ。わたしの顔の前には、マルフォイのシャツを着た肩や、白い首と耳がある。耳には、パヴァーヌのための音楽が、ステップする足音といっしょに聴こえてくる。 腰と右手を支えてもらっているが、もしターンのときに、後ろに倒れてしまったらどうしよう。おっとりとしたダンスだけれど、そうならない自信があるわけではなかった……どうやらわたしは本当に下手くそなようだ。 「目をつむって踊ったほうがいいんじゃないか?さっきから、ちらちらと下を見てる。その癖は非常によくない」 「目をつむったほうが怖いよ」 「ぼくが支えているから大丈夫だ」 「その言葉当てにならないんですけど」 「いいから、つむれ」 「……わかった」 目をつむると、マルフォイが顔をわたしに向け、わたしの全身をじろじろと眺めているのがわかった。わたしの欠点などを捜して、品評しているのだ。おかげでわたしは、ますます体がこわばった。 「うう……」 「動きが鈍くなってるぞ」 「こう……?」 「ん……そうだな」 わたしは一息洩らして、ぱっと目を開けた。そうすると、ごく間近にあったマルフォイの、わたしを見下ろす瞳と目があった。当たり前のことなのに、わたしはすごくびっくりした。 「なに驚いてるんだ?」 「顔が近いなあと思っただけ、あっち向いて!」 「な、なに言ってるんだ、ばかじゃないのか。顔が赤いぞ」 「わたし、あんまり踊ったりしたことないの知ってるでしょ?だからこっち見んなってばか!」 「だから、おまえを見ないと教えるもんも教えられないだろ!?」 「マルフォイだってなんで顔赤いの!?ちょっとやめてよ、もう」 「なんにもしてないだろ!おまえの赤面症がうつっただけだ」 な、なんだろうこのやりとり……。 マルフォイは頬がうっすらと赤いし、わたしも顔が熱いので間違いなく赤いことだろう。マルフォイの手を握る自分の手が、汗をかいているし、マルフォイの体にくっついた胸が、ばくばくと慌てているのも止められない。 わたしは自分が美形に弱いことを知ってしまった。マルフォイは、おそろしく美形なのだ。この鼓動は、きっとマルフォイにも伝わっているだろう。ああ、死んでしまいたい。 「変な意味じゃないからね。わたしは男性に免疫がない、純粋な少女なんだから。からかったりしないでよね」 「すごく突っ込んでやりたいが、まあいい。そんな暇じゃないんだ。……おまえ赤面が持続してないか?」 「だって、暑いんだもの」 「………ふうん」 だから、そんなまじまじと見ないでくださいよ!! と言いたいのをなんとか苦心してこらえた。そんなことを言ったら、まるで“あなたにどきどきしています、あなたはとてもタイプです”と言っているようなものではないか。いや、マルフォイは案外バカだから、そこまで深読みはしないかもしれない。でもきざったらしい自惚れ屋なかっこうつけだから、そういったことには敏感だろう。 ああ、その目がせめてわたしを熱心に見詰めていなければいいのに。マルフォイはきっと嘲笑っているに違いない、自分の魅力に参っているグリフィンドールの生意気な女を。 はっ、そうだ。この視線に耐えるには、目をつむればいいんだ。と思ったけれど、いまこの状態で目をつむれば、“もうどうにでもして”とでも言っているようにみえるかもしれない。ああ、どうすればいいんだろう。いっそ突き飛ばして逃げて行ったほうがいいものだろうか?! わたしは、そーっとマルフォイを横目でうかがった。 そのときにぱっとマルフォイがわたしから目をそらし、わたしを支えていた一切の手を離した。 「やめるか?」 「……え、あ、マルフォイ!わたし別に何とも思ってないけど、ただ……」 マルフォイがそんな顔立ちをしているのが悪い!っていうか、そんな見詰めてくるのが悪かった! と言いたいのをまた飲み込んだ。わたしは背筋に冷たい汗が浮かんでくるのを感じる。本当に、さっきからずっと、はらはらしっぱなしだ。どうして落ち着きたいときに限って焦ってしまうのだろう。 「もういい、ぼくは疲れた」 「や、まって。誤解してる!絶対誤解してるでしょ。いまから談話室に行って、スリザリンのどうしようもない連中に、わたしが真っ赤になってたって言ってバカにするんでしょ!?」 「す、するか。そんなくだらない」 「絶対する!わたしはそういう意味で赤くなったわけじゃないんだから!ただちょっと……」 「……ちょっとなんだよ」 「……………あ、暑かった………から………。」 一気に心が冷えるのがわかった。 我ながら苦しすぎる嘘だ。わたしは、本番には強いけど、パニックには弱い人間なのだ。そういうふうに生まれつきできているのだ。 マルフォイは床を見ていたが、ふっと鼻で笑った。 「暑かったのか、わかった。じゃあここを出よう」 「いやいやいやわかってない絶対わかってない」 「じゃあなんて言ってほしいんだよ。おまえは息を吸うたびに赤くなるのか?」 「なに言ってんの、そんなわけないじゃん、わたしは……その」 うつむいていても、マルフォイが大仰にため息をつき、天井に目をやったのがわかった。わたしは不意に、この部屋があまりに静かすぎることを恨めしく思った。話し声の断片やばたばたとした足音が聞こえてきたら、いくらか意識を外へやることはできたであろう。 だがいま、こうして沈黙の中、相手がどう出るかを真剣に待っているのでは、わたしに分が悪すぎる。わたしの顔はどうして赤いんだろう。どうして青くなってくれないのだろう……。 「わたし……が、まるで、マルフォイのことを好きみたいに思っているでしょ?」 「思ってない」 「わたし、そんなんじゃないよ。ほんとうなんだから」 「わかっている。あんまり否定すると、逆に好きだといわれてるみたいだ」 「だから違うってば!!」 「だからわかっているって」 マルフォイの低い、抑揚のないまじめな声に、わたしはびっくりした。 マルフォイはほんとうに、どうでもよいと考えてくれているのかもしれない。なかったことにしようとしてくれているのかもしれない。 決心して顔を上げたとき、視界に映ったマルフォイに、わたしの期待は粉々に破れた。 笑っている!嘲笑っている!なんかにやにやしてるー!! 「わかってないぜったいわかってない!!」 わたしの顔がまたかーっと熱くなってくる。マルフォイはわたしを見て、いままで隠していたがこれはたまらないといったふうに、くすくす笑った。 「はは。ぼくが好きじゃないんだろ?よくよくわかっているとも、」 「ファーストネームで呼ばないで!!」 「こんな密室にふたりきりなんだから、恥ずかしがることはない。おまえもぼくをファーストネームで呼んでいい」 「死んでも呼ばないし!!興味ないし!!近寄らないで!!」 「なに言ってるんだ、ダンスの練習を始めるぞ。いつまで動揺してるんだ?」 「うっ……もうやだ……」 マルフォイの手がわたしの手を掴んだとき、汗ばんだわたしの手に対して、彼がぷっと笑ったのを見た。もうやだ……。トラウマになりそう……。 ステップをよろよろしながら始めると、マルフォイが「また足元を見ている。目をつむって、音楽に集中しろ」とささやいた。今度はもう、ふざけたような感じは拭い去られている。きっともうマルフォイは、わたしの醜態など忘れて、ダンスのレッスンをまじめにこなすつもりなのだろう。 まだわたしの胸はざわざわしているのに、マルフォイには、ちょっと笑って済ませられるような、些細で馬鹿げた出来事でしかなかったのだ。そっちがそうなら、わたしもそうしたらいいのに、わたしにはできない。まだ顔が熱いし、心臓はばくばくで、冷汗がにじんでくる。しかもその症状は、悪化の一途をたどっている。 「目をつむれって」 「う……うん、でも」 「なんだ?」 「…………こっち見ないでくれる?」 「なんでだよ」 「目をぱっと開けて、そのときあんたの顔が近くにあったら、胸がむかむかしてくるから」 「ふん、いい度胸だな」 げにおそろしきは美形かぁ。 性格が最悪なのに顔だけはいいなんて、ほんとうに悪魔みたいな男だ。しかも、黙っていれば天使のようなんて、なんという皮肉だろう。これではわたしでなくても、きっと誰でも赤くなったりしてしまうに違いない。 わたしは目をつむった。目をつむりながら、マルフォイのことを好きな女の子は、どんな気持ちになるだろうと想像した。 こいつだけはだめだ、と思えば思うほどとりこにされる女の子が、はたして存在するのだろうか。こんな嫌なやつなのに、それを認識しているのに、夢中になってしまったりするのだろうか。 きっとマルフォイは、自分が好きになった女の子には、うんと優しくするだろう。スリザリンの女の子にも、きざったらしく紳士ぶったりするだろう。では、わたしのようなグリフィンドールの女に好かれたら、どんな態度をとるのだろうか?それとも、グリフィンドールの女になど好かれたことはないだろうか。こいつは敵対している寮生なのだから、それに惹かれる愚か者など、未だかつて存在しなかったのだろうか。 「ぼんやりするな。動きが鈍っているぞ」 「!う、うん」 「………おまえ、顔の赤みはまだとれないのか?酒でも飲んでるんじゃないだろうな」 「うるさいなあ」 目を閉じながらやりとりしていたが、突然マルフォイがステップをやめてしまったので、わたしはつんのめって、マルフォイの体に飛びついてしまった。 「なに!?急に止まんないで!」 「いや、べつに。目を閉じろよ、しばらく開けるな」 じっとしろ、と言いながら、マルフォイはわたしの顎を触った。 って……え? 馬鹿正直に目を閉じてじっとしていたわたしだけれども、踊っていないときに目を閉じるのはおかしい、だって目をつむるのは足元を見る癖を直すためであって。……… 「わー!なにすんの!?」 わたしは慌てて目を開けて、マルフォイの手を振り払った。 「なにもしてないだろ、なんだよいったい」 「だってなんかおかしいじゃん、目をつむれなんていったい何でって感じでしょ!?変なことしようとしてたんじゃないの!?」 「変なことってなんだよ。おまえは目を開けたら、しばらくまたつむらないから、そのまま閉じさせていようと思っただけだ」 「………」 マルフォイは、蓄音器の音楽が止んでしまったので、それを再生させなおした。そのために立ち止まったのだ。別に、何かしようと思い立ったわけではなかったのだ。 「恥ずかしいやつだな」 「………」 「なにをされると思ったんだ?いったい」 「………」 「ぼくがおまえを熱く抱きしめて、キスでもしてくるもんだと思ったのか?くだらない恋愛小説の読みすぎだな」 「お、お、思ってない、し、恋愛小説なんか読んでない!」 「はは。図星か?もういままで見た中で一番真っ赤じゃないか」 「うう……ひどい。もうひどすぎる、わたしパーティなんか出ない。あんたなんかと絶対踊らない」 穴があったら入って一生でてきたくない……。少なくともマルフォイのいる世界には絶対にいていたくない……。 顔から火が出そうなわたしの両肩を掴んで、軽く揺すぶりながら、マルフォイは腹が立つほどさわやかに笑った。 「まあそう言うなよ。このまま続けていたら、望みどおりにしてやってもいいから」 「はああ!!?誰が望むか!!ボケ!!」 「ボケのぼくと欲求不満のおまえか。なかなかできたペアじゃないか?」 「もう、さいってー。もうやだ。もういろんなことに嫌になった」 マルフォイが相変わらず笑って、わたしの頭をよしよしと撫でた。女のひとを撫でるんじゃなくて、あくまで犬でも撫でるようにぐしゃぐしゃとした乱暴な手つきだ。 「元気出せよ、うまく踊れるようになれば、練習してよかったと思えるだろうよ」 「…………」 「とりあえず今日は、素直に踊れるまでがんばろう、」 「素直ってなに!?いつ終わるの!?っていうか名前で呼ばないでってばー!!」 「だから照れるなって」 にやにや笑っているマルフォイは、まだわたしをからかい甲斐のあるおもちゃと見なしているようだ。 「照れてないし!!あんたなんかとキスしたら口が腐るし、いっとくけどあんたのこと大っきらいなんだからね!?」 「はいはい」 ぐいと引っ張られて、むりやり踊らされながら、本気でどうしてくれようこの男、とわたしは思った。 のんびりとした優雅な曲は、もはや、別の次元のもののようだ。いまならきっとわたしは、激しい感情のままにスペインのダンスだって踊れることだろう。この、殺意と焦りと動揺と混乱を複雑に交えた感情は、なんと言葉にすればいいのだろう? 「あー!!ほんとむかつく!!むかつきすぎる!!嫌いすぎる!」 マルフォイの、見たこともないほがらかな笑みに、わたしはこいつが美形でさえなければ……!と思った。美形でさえなければ、こんな気持ちにならなかったのに! 絶対こんなやつ好きになんかならない!!なるわけがない!! 「だから、否定は感情の裏返しのように聞こえると言っただろう?」 なにそれ……!?じゃあ好きだとでも言えばいいわけ!? |