あすはクリスマスだという日のこと。
わたしは粉雪のちらつく市場の、新鮮な果実の美味しそうな匂いや、魚貝類の潮の匂いや、焼きたてのおかずパンの香ばしい匂いを思い切り吸い込みながら歩いた。
「あんたは、マルフォイ家でお勤めのお嬢さんだったね」
肉屋の愛想のよいおばさんが、オレンジ色のテントの下から声をかける。おばさんの前には、豚肉や鶏肉や牛肉が揃い、おばさんの後ろでは、目にするのが恐ろしいような豚と鶏の丸裸な死体が吊られてある。わたしは頬笑みながら彼女に近づき、てらてらと脂の光っている、レモンの輪切りが載った豚肉の料理に目をとられた。
「こんにちは、そうです。いつも美味しいお肉をありがとうございます。旦那さまも、お肉よりお魚のほうがお好きのようですが、こちらで買ったお肉でしたらいつもより多く召し上がるんです」
おばさんは、血の付いたエプロンで手を拭いながら、そうだろう、と誇らしげに笑った。
「あすはクリスマスだから、ロースト・ビーフか七面鳥でも買っておいきなさい。お安くしとくよ。これなんか、ハーブと一緒にかまどに入れたら、ほんとうにおいしいんだよ。肉汁がうんと出てさ」
「じゃあ、そうですね、それをひとつ包んでください。きょうはいつもより賑やかですね」
「ああ、そうさ。クリスマスになったら、年始まで市場はやらないから、みんな冬眠するみたいに食料を買い溜めしとくんだよ。これはおまけの干し肉だよ、あんたが食べなさい。あたしは、あんたの旦那さまが好きなんだよ。ほんとにお綺麗なお方だもの、いい目の保養さね」
「ありがとうございます。いただきますわ。ごきげんよう」
「ごきげんよう。また寄りなさい」
わたしはずっしりと重い七面鳥を包んだ新聞を抱え、旦那さまのお好きな白身魚の袋も提げ、にぎやかな市場の通りを抜けた。
雪がさらさらとしとやかに降っているというのに、市場の中はなんという熱気に包まれていたことだろう。むっとする人いきれやほとんど罵声と言ってよい騒がしい声、そういった賑やかさが、わたしは大好きなのだ。
しかも、市場の人々は、みんな旦那さまのことを知っていて、“あのマルフォイの生意気な倅に持って行きなさい”とか、“マルフォイといえば、すごく大きな家だから、これも大きめにしておかなくちゃ”などといって、親しげな軽口を叩いてあれこれと持たせてくれる。市場の人たちは、ウィルトシャーで一番気の好い、お人よしの集まりなのだ。
わたしは、気持ちよく帰って来て、食堂のテーブルに着き、果物と蝋燭のついたリースを編みはじめる。
陽が差し込む窓べに、快いコーヒーの香り。暖炉がぱちぱちと燃えて、温かくて気持ちがいい。
さて、完成したリースは、少々いびつだがとても可愛らしく暖炉の上に飾られている。
わたしはその出来栄えにすっかり満足し、何度もあたりをうろついてそれを様々な角度から眺めた。どうやらわたしは、リース作りの才能があるようだ。飽きるまで自分の腕のよさに感心しきると、ようやく軽やかな足取りで厨房に向かった。


、いま帰った」
美しいうす紫の夕暮れ、夕日を浴びた橙色の雪が広大な大地を包むころ、旦那さまがお仕事からお戻りになられた。旦那さまは、クリスマス・イヴというのに、まっ黒な外套を着て、まるでお葬式帰りのようだ。だが、そのジャケツは、旦那さまにひどくよく似合う。革手袋を外すしぐさは、一枚の洋画の金の額縁に収まるべき光景であった。
「旦那さま、お帰りなさいまし。ご夕食ができております」
「うん……」旦那さまはちらと食卓に目をやった。そのそばにあるリースに、どんな反応があるかと、わたしは旦那さまの一挙一動を熱心に見詰める。
「いや、きょうはいい。ぼくはすぐ出かけなければならない」
「お仕事でしょうか?だってイヴでございますのに」
「イヴだからこそ出かけなければ。熱いお茶をくれないか」
「……あ、かしこまりました、旦那さま。せめてスープだけでも召し上がりませんか?」
「いや、お茶だけでいい。それとぼくは、今から出かけて、そのままあすハンツの両親の屋敷でクリスマスを過ごそうと思う。だから、26日まで帰らない」
旦那さまのお言葉に、わたしはぎょっとして、茶器の蓋を取り落としそうになった。
それはまったく予想だにしていなかった言葉だ。いま、なんと言われたのか、わたしには信じることができない。
「だからおまえも、ぼくが出かけたあと、26日まで自由にしろ。暇をやるから。せっかくのクリスマスだから、家族と過ごすのもいいだろう」
「………いまから、まっすぐご両親さまのお屋敷に向かわれるのですか?」
「いや」と旦那さまは、わたしのお出しした茶わんに口付けながら、その濃い湯気に目を細めた。「いまからは、べつのお方と約束があるんでな。父と母のもとへ行くのはあすの朝だ。朝まで、いまから会うお方のもとで過ごす」
「………それは………女性の……」
わたしがなぜか頬を赤くしてもじもじしているのを見て、旦那さまはふと笑った。
「ちょくちょくおまえが寝てる間にも、ここを抜け出して、朝まで過ごしたりしていたんだが。おまえが知ったのは、あの誘拐騒ぎのときだけか?」
わたしはますます驚いた。旦那さまが夜に抜け出していらしたなんて、あの日一日だけかと思っていたのに。
「まあそういうことだ。あんまり深くは訊いてくれるな」
「どうか、ぜひ、こちらにお連れなさってくださいませ。イヴですもの、こちらでごゆっくりなされるのが楽しいんじゃございませんか?未来の奥さまになられるお方ですもの、ぜひお会いしとうございますわ」
「未来の……?それはない」
旦那さまがそうおっしゃったとき、旦那さまのお美しいお顔に差した翳りを、どうしてわたしが見逃すことができたであろう。
わたしは出すぎたことを言ってしまったと、口を噤んだ。
「おまえも実家に帰るんだろう」
「わたくしは……こちらでゆっくりと過ごさせていただきますわ。せっかくクリスマスの料理のための食材が、勿体のうございますもの」
「まあどこもかしこも人だらけだろうからな、それが一番悧巧かも知れない」
「………」
旦那さまは茶わんを受け皿にかちゃりと置き、「さて」と席を立った。
「そろそろ行かなければ。ここにいるなら、戸締りを頼んだぞ。あすは、庭師は来ないそうだ」
「かしこまりました、旦那さま。どうぞお気をつけて」
「ああ。見送りはいい」
リースなど目もくれず、旦那さまは外套と手袋を着けて出ていかれた。
恋しいひとのもとへ。26日までは帰らないと言って……。


旦那さまは、わたしが眠っているあいだに、外出して朝まで戻ってこなかったことが何度かあったと仰った。だが、旦那さまがいらっしゃらないとあらかじめ知りながら迎える夜は、わたしには初めてのことだった。
なんて闇が濃いのだろう。なんてひっそりとしているのだろう。天井はあまりに広すぎるし、衣擦れの音が異様に大きく響いている。
入浴を済ましたわたしは、そっと寝台に横たわった。枕元に置いたランタンの火が、じりじりと揺れて、わたしの大きな影を壁に刻んでいる。
わたしは寝返りを打った。旦那さまはいま、女の方を胸に抱いていらっしゃるのだろう。奥さまなら想像できても、なぜか、恋人という立場の女性は想像できない。
奥さまなら嬉しいのに、なぜ、恋人ならこんなに悲しいのだろう?悲しい……そう、悲しいのだ。この心がうそ寒い感じ。悲しいということなのだ。
わたしは暗闇に向かってため息をつき、目を閉じた。旦那さまがいま一緒にいらっしゃる女性が、奥さまになられるお方ならいいのにと思いながら。


翌日。クリスマスということも忘れて、昼過ぎまでわたしは、シーツの中で丸まったり本を読んだりしながら、好きに過ごした。忙しさにかまけて、読むことが出来なかった本。こんなにおもしろいものが身近にあったのに、ゆっくり楽しむこともままならなかった。
わたしはゆっくり食堂に下りて、ゆうべの残りのスープとパンとクリームのパイを食べた。それから、洗濯をしてしまうと、もうやることがなくなってしまった。
露台に出て、澄んだ冷たい空気を胸いっぱいに吸う。クリスマスなど関係なく、冬の空気は、いつも同じに気持ちがいい。
そのとき、わたしの顔にばさりとなにかが殴りつけてきた。
「うわっ、あ、あんただったの」
わたしの顔の前で、ばさばさとワシミミズクが、非常に怒ったようすで飛び回っている。旦那さまのペットで、いつもわたしを足蹴にしたり、“なんだ、この下等生物は”といったような眼で見下ろしたりしてくるやつだ。彼は、露台の片隅に置いたたくさんのカードや贈り物の束の上に飛び乗り、わたしを睨んだ。
「ごめんね、こんなにたくさん届けてくれたの?クリスマスだから、あんたもお休みなんだと思ったのよ。早く気付かなくてごめんね」
丸い瞳でわたしを一瞥すると、ワシミミズクは、ふくろう小屋のほうへすーっときれいな直線を描いて飛んで行った。
ああ、このあいだようやく、わたしの出した食べ物を口にしてくれるようになったのに。これでまた信頼関係は壊れてしまったわけだ。
わたしはたくさんのカードや包みを抱えて広間へ入った。どれもこれも旦那さまに宛てたものだと、宛先すら確認しなかったが、わたしの目に入った茶色いメッセージカードには、“麗しき嬢へ”と書かれてあった。
ゴイルさまからだ。彼らしい大柄な筆跡で、“クリスマスおめでとう。12月31日のパーティを楽しみにしています。あなたはぼくと、一曲お相手してくださらなければなりませんよ。よいクリスマスを……グレゴリー・ゴイルより”としたためてあった。
わたしのような、一介の使用人に、まるで社交界のご令嬢を呼ぶ時のように“嬢”と呼んでくださるなんて、彼はなんてよいお方なのだろう。しかも、ダンスのパートナーさえいないわたしを気遣って、こうしていたずらっぽく誘ってくださるなんて。
わたしはそれを大切にエプロンのポケットに入れ、それ以外の贈り物をお書斎に運び入れた。
お書斎は、がらんとしている。なめらかな机の上には、旦那さまの細身の羽ペンとペン立てがあった。小さな彫像を本立てにして並べられた重厚な書籍の数々。羊皮紙の束と書付。深紅の絹の絨毯……。
それらは当然掃除もするわたしには何度も見たことがあったが、いま、わたしの知っているものとは離れた、また別のもののように見えた。それらは、わたしの知っている旦那さまの所有物ではなくて、わたしの知らない旦那さまの所有物のような……。
用もないので突っ立っていては悪いので、わたしは事務室に向かい、そこでゴイルさまに返信を書いた。ちょうど、先日、椿の絵の入ったメッセージカードを買ったところなのだ。
“ゴイルさまへ ありがとうございます。ダンスがたいへん楽しみでございます。どうぞゴイルさまも楽しいクリスマスをお過ごしくださいませ。お風邪にお気をつけくださいね メリー・クリスマス より”
それを届けてもらいに、ふくろう小屋へ行ったのだが、ワシミミズクは不貞寝していたので、わたしは違うふくろうにそれをあずけた。
それから、やることもないので、七面鳥に野菜を詰め込んだり、マリネをこしらえたり、じゃがいもの皮を剥いたりした。
あんなに忙しい忙しいと思っていたが、暇になるとこんなに虚しいなんて知らなかった。
わたしはぼんやりとさ迷ったあかつきに図書室へ入り、子供向けの魔術の本を手に取った。それは、幼児向けのものだが、なかなかに手のこった解説がしてあり、大人のわたしが感心するようなつくりであった。ぱらぱらと捲っていると、ページの隅に変てこなトカゲの絵が落書きされているのに気が付いた。
これは、旦那さまが子どもの時分に、勉強に飽きて何の気なしに描いたものだろうか。あるいは、もっと遡って、ご幼少のルシウスさまのしわざかもしれない。わたしがどんどんページを繰っていくと、トカゲはどんどん成長して、横向きの怪獣になっていた。
もし、旦那さまがご結婚されて、お子さまができたら、この屋敷からこのような静寂と虚無感が漂うことはなくなるのだろう。
同じように本に落書きしたり、すずめを捕まえてきたり、けがをしたり、泥を持ちこんだりするもんだから、お屋敷の絨毯は汚れてしまうに違いない。
わたしはそういったことを想像し、怪獣の濃い筆圧を指で触った。だが、旦那さまは、いまお付き合いしている女性とは結婚なさらないそうだ。このお屋敷が賑やかになるのは、もっと後伸ばしにされてしまうのだ。
わたしはたちまち惨めな気持ちになり、厨房の調味料の戸棚から料理用に買ったぶどう酒を取り出すと、食堂でそれをひとりで飲みはじめた。
喉が渇いていたので、ぶどう酒はおいしくするすると体に入ってくる。普段、旦那さまとご一緒にいただくときは、舐めるようにしか飲まなかったのだが、思い切って飲み込んでみると、それは心地よく体に滑りこんだ。旦那さまにいただくような、セラーから取り出した年代物のぶどう酒は、酸っぱくて苦くて、まだわたしには美味しさがわからない。それに比べて、この安い料理用に買ったぶどう酒は、なんて口あたりがいいのだろう。
お腹がすいたけれど、なにかを食べる気になれない。厨房まで歩いていくのが面倒くさい。体が重くて、身動きするのが億劫だ。これは、わたしがすでに酔っぱらっているということだろうか?そう言われてみれば、なんだか頭まで鉛をかぶったようだ。
旦那さまが、ここにいらっしゃったらいいのに……。
旦那さまがここにいて、「暖炉の火を大きくしてくれ」とか、「ブランディを持ってこい」とかおっしゃれば、わたしは酔っぱらっていてもしゃきしゃき動き回ることができるし、酔いだって一瞬で吹き飛んでいくだろう。
だが旦那さまはあすまで帰っていらっしゃらない。わたしがべろべろに酔っぱらって、だらしなくここで潰れていても、誰にも怒られないし文句も言われないのだ。
せっかく下ごしらえした七面鳥はどうすればいいのだろう。リースも、魔法をかけていないので、あすは枯れてちぢれてしまうのではないだろうか。あの七面鳥は本当にりっぱだし、リースも売り物のようにかわいいのに、なぜ何の役にも立たないのだろう。きょうは、クリスマスなのに……。


「帰ったぞ」
そのとき、玄関から旦那さまの声が響いてきたので、わたしは幻聴だと思った。
だがしばらくじっとして耳を澄ましていると、ほんとうに足音がこつこつと聞こえてきたときの、わたしの感情は一言で表現できない。
まず喜び、そして驚きと焦りがぶわーっと沸き起こって、わたしはよろけながら食卓に立ち上がった。
旦那さまが帰っていらした!だが、飲んだくれて酔っぱらったことが知れたら、きっと顔をしかめて睨まれるに違いない。ああ、どうしよう……わたしはぶどう酒の壜とコップを抱えて、厨房に駆け込み、また走って食堂に戻ると、こんどは乱れた髪を指で整えた。
どうやら、ぎりぎり間に合ったようだ。扉を開けて入ってきた旦那さまは、わたしを見て、「なんだ、びっくりした顔をして」とおっしゃった。わたしからはぶどう酒の匂いが漂っているのであろうが、どうやらそれもばれることはなさそうだ。というのも、旦那さまもお酒を召し上がったらしく、頬をうっすら赤くしていらっしゃった。
「……旦那さま、お帰りなさいまし。本日お戻りになられるとは、存じませんでした」
「父上と母上は、あすの朝からおふたりで旅行に出られるそうだから、今日中に引き上げて来たんだ。なにか届いていたか?」
「ええ。お書斎にお持ちしております」
「そうか」
旦那さまはふうとため息をついて、上着を脱ぎはじめる。わたしはいつものように背後からそれを手伝ったが、手に冷たいジャケツの感触があるのに、まだ現実のもののようには思えなかった。まさか、本当に帰っていらっしゃるなんて思わなかったのだ。
「ぼくはおそろしく空腹なんだが、なにか用意してくれ。簡単なものでいい」
「お食事を済ましていらっしゃらないのでございますか?」
「立食形式だったので、取りに行くのが面倒だったんだ。いまになって腹が減った」
「かしこまりました……七面鳥がございますが」
「なんでそんなもんがあるんだ?おまえがひとりで食べるつもりで用意したのか?」
「クリスマスの晩餐に、旦那さまにお出ししようと思ったんです。旦那さまがお出かけなさるとは存じませんでしたから」
「ふうん……。じゃあおまえと食べよう。それを持ってきてくれ」
わたしは笑って、「かしこまりました」とお答えした。


七面鳥は驚くほど美味しかった。材料を詰めてかまどに入れておいただけなのに、こんなふうに出来上がるとは、なんて手間いらずな料理だろう。旦那さまはそれと白パンを少し食べると、ナプキンで口をぬぐった。
「ハンプシャーはいかがでございましたか?あちらは、ここよりも暖かくてよいところでそうじゃございませんか」
「マグルが多い地域だな。それ以外は、まあまあいいところだろう。母は海沿いに住みたかったとずっとおっしゃっていたので、ご満足していらっしゃるようだ。ここは森の中にあるからな」
「さようでございますか。31日が楽しみですわね」
「おまえは今日、なにをしてたんだ?」
わたしはナイフを動かす手を止め、咳払いをした。なにをしていた……なにをしていたんだろう?ただ、ぼうっとしていただけな気がする。
「いろいろです」
「いろいろってなんだよ。どうせぼーっとしていたんだろう」
「いろいろはいろいろでございますわ」
図星をついたと確信しているらしく、旦那さまはにやりと笑ってコーヒーをお注ぎなさる。
わたしはフォークを置き、旦那さまのお顔をそっと眺めた。
クリスマスの晩に、白と金色の蝋燭の火影を映した、美しい主の顔を見ることができる。
それは、わたしがずっと思い描いていた理想的なクリスマスだ。わたしは、そうなることをずっと何年も昔から望んでいたような気がした。
「なんにせよ、我が家が一番だな。ぼくは帰ってくるとき、庭から食堂に灯りがついているのを見て、家に誰かがいるのはありがたいことだと感じたよ。それがたといマッド・ブラッドのメイドの小娘でもな」
「お役に立てたようで、ようございました」
夜が更けるのを心地よく感じながら、わたしは神様に感謝した。