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マルフォイ邸に訪れる朝は、夜よりもずっと静かで、すべてがまだ寝静まっているような、息を殺さねばならないような張りつめた空気が漂っている。
それは夜のうちから着々と用意された、青い静寂としずくを重たそうにもたせたばらのつぼみと、枝と枝が差し交わすこずえを縫う鈍い銀色の光で形成されている。
朝の空気を取り入れるために窓を開け、蝋燭に火を灯し、暖炉に薪をくべ、温室から花を取ってあちこちに活ける。そして厨房に立つころには、小鳥がさえずり、森の小さなけものが、木々の上を歩きまわったり、飼っているくじゃくや犬どもが、なめらかな雪の上を歩きまわったりする。
あくびをかみ殺して出迎えるような、ごく当然の平和な朝がやってくる。
わたしは自分のカップに熱いお茶を淹れ、それをすすりながら、ゆうべのうちに拵えておいたスープを温め、魚やサンドイッチや野菜やチーズを食堂に運び込む。お行儀が悪いけれども、かまどの中で調理が済むのを待っているあいだ、さっさと自分の朝食も済ましてしまう。
一度、「ゴイルがくるそうだから、晩餐の用意を増やしてくれ」と言いつけにいらした際、チョコレート・クリームを食べているのを見つかったときは、なんだか悪いことをしているような気がしたものだ。旦那さまは、訝しげにわたしを眺め、「坐って食べればいいのに」とおっしゃってから行き過ぎていかれた。
わたしもそのとおりに思うけれど、立ち仕事に慣れていると、こんどは坐るのが面倒になってくるのだ。
食事の支度がすっかり終わり、朝食の時間になったが、旦那さまが下りていらっしゃる気配はなかった。わたしはそのあいだに、朝の間の掃除をして、銀の盆に朝刊と届いていたお手紙を並べ、ばたばたと駆けずりながら食堂に戻ったが、それでも旦那さまはいらっしゃらなかった。
旦那さまはたいへん低血圧なので、朝はとても弱い。もしかすると、まだ眠っていらっしゃるのかもしれない。
だが、寝坊するときは前の晩のうちに、「あすは昼まで眠るから、起こさないでくれ」とあらかじめお伝えくださる。
これはめずらしいことだ。
わたしはメイド服の裾がさらさらと衣擦れの音を立てるのを気にしながら、息を殺して旦那さまのご寝室に向かった。寝室は、旦那さまの私室の次の間にあり、さらに寝室の向こうに浴室が控えている。わたしは彫刻のしてあるサテンウッドの扉を叩き、「おはようございます旦那さま、ご朝食のご用意が、すでにできておりますが」と声をかけた。
たっぷり10秒は待ったが、返事も身じろぐような気配もないので、「失礼いたします、旦那さま」と言ってから、思い切って握りをひねって中に押し入った。食卓ではお茶がすでに冷めかけているのだ。
わたしが見たのは、白い柱の寝台に、ひとつの乱れのないシーツと枕であった。安眠のためにわたしがいつもシーツにつける、ラヴェンダーの香油が、つけたときと同じにふわりと香った。
「………っ?」
わたしは息をのみ、あたりを見渡したが、当たり前のように誰もいなかった。旦那さまは、寝台に一度も手を触れずに、何らかの理由でここを出られたらしい。
誘拐でもされたのかもしれない……。
ふと思い浮かんだ疑惑が、わたしの胸に大きな波紋となって響き渡った。とにかく…とにかく……ああ、どうしよう、とりあえず事務室に行って、ハンプシャーのご両親さまに「ドラコさまはそちらにいらっしゃいますでございましょうか?」とお手紙を送ろう。
ああ、もしその返事が、「息子は来ておりませんよ。いったいどういうことです?」といったものであったなら、どうすればいいだろう。旦那さまが、パーティでもなんでもない日に、どなたかご友人のもとに出かけられるなんて不躾なことはなさるまい。だいたい、そんな時間のつぶし方はもっともお嫌いになられるはずだ。
わたしは部屋を飛び出し、事務室に向かうために駆け降りた。


「ばたばたと走るんじゃない。絨毯が痛むだろう?」
旦那さまがそう言って曲がり角から突然姿をあらわしたので、わたしはつんのめって、そのまま旦那さまの腕をがしっと掴んだ。そうしなければ、転んでしまうところであった。
「なんだよ、血相を変えて。熱いお茶を淹れてくれ……けさは本当に寒い」
旦那さまはばっとわたしの手を振りほどき、グレーのジャケツを脱いでわたしによこした。生地が、冷凍室に入れていたみたいに、冷たく掌を刺激した。
「わたくし」とまだびっくりしたままわたしは言った。「旦那さまが誘拐でもされたのかと思いました。お出かけになられていらしたとは知らなかったものでございますから」
「誘拐?独身の一人暮らしの男なんか盗んでどうするんだよ。誘拐って言うのは、家人がいて成立するんだ。でなければ誰が身代金を届けに来てくれるんだよ」
「わたくしもこちらにお仕えしているんですもの、わたくしも家人でございます。わたくしは、旦那さまのためなら、どこへなりともお届けにまいります」
「ふん。おまえは本当に生意気なばあやだな……まだちびの小娘なくせに」
「さようでございます。あと3年もすれば、りっぱな婦人にもなっていると存じますが」
「じゃああと3年は誘拐されないようせいぜい気をつけよう」
旦那さまは鼻で笑った。わたしは旦那さまと肩をならべ、食堂に向かいながら、“どこに行っていたのか訊いてもいいものだろうか”と考えていた。だが、訊かずにいてよかったのだと、その後すぐ判明した。
旦那さまはコーヒーとトーストと果物で朝食を済ませると、入浴をしてお出かけになった。わたしは、旦那さまのお召しものを洗濯かごに入れているとき、あることに気づいた……まっ白いシャツの胸ポケットの隣に付着した、ファンデーションとチーク。
それを見たとき、顔も見たことのない女性のオー・ド・トワレの香りが、わたしの顔の前をさっと行き過ぎた気がした。
旦那さまは、女性のもとへ行っておられたのだ……。
恋人のもとへならば、夜中であろうとなんにも不躾ではないし、不自然でもない。その女性を胸に抱きながら、一晩をお過ごしになったのだ。
わたしはその事実を嬉しく思い、もうじきいらっしゃる奥さまのために、屋敷をより徹底的に美しくしようと思った。


「西の廊下のカーテンを取り換えなければ」
その日の晩、ロンドンからお戻りになった旦那さまが、手紙の束に目をやりながらおっしゃった。手紙のひとつひとつの差出人に目を通し、そのうちのひとつの封を切る。ペーパーナイフが鋭利な刃物のように動いている。
わたしは窓下腰掛に坐り、ぶどう酒をご一緒にいただいているところであった。わたしのすぐ後ろ、窓の外では、大粒の雪がごうごうと風になぎ倒されるように降り注がれている。あたりは恐ろしいほどの豪雪だが、室内は暖かなぶどう酒と暖炉と、絶対の平和が存在している。
「カーテンでございますか?」
西の廊下のカーテン……。わたしは燦々と惜しげなく陽光の差し込む西側の廊下を思い描いた。
「ああ。あす、仕立てたものが届くから、おまえは昼のあいだにそれを取り付けておいてくれないか」
「はい。かしこまりました」
「それからあすは、久々に父上と母上がいらっしゃるのだから、おまえもいつも以上に行儀よくしてろよ。こんな馬鹿なメイドしかいないのかと、余計な心配されてはいけないからな」
「かしこまりましてございます。あすの晩餐会のお献立は、ご覧になられましたでしょうか?」
「ああ、これでいい」
旦那さまはお手紙を読み、つぎつぎと封を切ったり机に押しやったりなさりはじめた。どうやら、お返事の必要なもの、またそうでないものを判別しているかのようだ。
「あす、大旦那さま方は、お泊りになられるのでございましょうか?」
「さあ、わからない。なんにも言っていらっしゃらなかった」
「さようでございますか、では、ご用意だけ済ましておきます」
「そうしてくれ」
わたしは眠る前に、屋敷中の蝋燭を吹き消したり、鎧戸を下ろしたりしながら、自分の部屋へと向かった。
西の廊下……。西に位置するお部屋は、マルフォイ邸の中で最も過ごしやすく美しいお部屋で、代々、当主ご夫妻でお過ごしになられる場所だ。
ではあす、旦那さまはご両親さま方に、奥さまになられる女性をご紹介なさるおつもりなのだ。
あの部屋の前のカーテンを取り換えるということは、近々旦那さまが、奥さまとあそこを私室にご使用なさるからだ。
わたしは早足で歩きつづけた。
奥さまになられる女性を、何度も想像してみようと試みたが、うまくいくことはなかった。




なめらかなすべすべした芝や、屋敷裏の古い果樹園や、丸くて白い小石の車道、白樺の森をすっかり雪が覆った午後。
屋敷にたそがれの紫色と蝋燭のほのかな橙色が差し迫り、何もかもが心地よく気だるいため息を洩らすようだ。
今日という美しい晩は、すでに約束されたものとなった。大粒だった雪が態度を変え、しとやかな粉雪になり、夕暮れを水玉模様にしながら降ってくる。ポーチや冬ばらの花壇のぐるりに積もった雪が、夕闇の青紫色に染まった。
わたしが厨房でフォアグラとレモンクリームの冷料理のもりつけを終えたころ、ルシウスさまとナルシッサさまが、ポートワインを持っていらっしゃった。かまどではメインの食事がそろそろ完成しそうなので、いいころあいだ。わたしはおふたりのジャケツをホールスタンドに掛け、おふたりが、懐かしげに屋敷や旦那さまをご覧になっているのを見つめていた。
「壁紙や絨毯を新調したのか」
「ええ。昔のやつは、北の物置に仕舞いこんであるはずですよ。そうだろう?
「はい、旦那さま。大切に保存しております」
「なつかしいわ、この家……匂いも空気も何もかも変ってないわ。さん、あんたはぜんぶひとりで済ましてしまうんですってね。とても骨が折れるでしょうけど、よく尽くしてくれていますね。あんたの主は、とてもわがままじゃなくて?」
ナルシッサさまが、優しい言葉とは裏腹に、冷淡な態度でわたしを見た。わたしは頬笑みながら、「旦那さまはとてもいいご主人さまでございますわ」と返すのに精いっぱいで、ただただ畏縮するばかりであった。ナルシッサさまは、あまりにお美しすぎて、恐ろしいほどだ。その横目で一瞥するような表情は、旦那さまにそっくりそのままであった。旦那さまはルシウスさまによく似ていらっしゃるが、ナルシッサさまの面影も色濃く映しておられる。
「お食事の支度ができておりますので、食堂にお越しくださいまし」
「お嬢さんが、全部一人で作っているのかね。まったく大したものだな」
「お料理は得意なの?ドラコ、あんたはすこし痩せたんじゃなくて?あんたは、お腹が空いていても面倒くさがって食べないんだから。ちゃんと食べなきゃだめよ」
「そこそこ食べてはいると思いますけどね」
前菜のあと、パンや、チョウザメのソテー、チーズなどをお出しすると、ルシウスさまは「ほう、なかなかいい味付けだな」とおっしゃり、ナルシッサさまは「おいしいわ。あんたはフランスの女学校にいたの?あら、違うの?お料理がフランス風だからそう思ったのよ」とおっしゃった。旦那さまは黙って召し上がっていたが、食後のブランディを飲みながら、すっかり寛いだご様子でいらっしゃる。ご満足をいただけたようで、わたしは嬉しかった。
「メイドなんてどうかとおもったけれど、いざ働きぶりを見てみると、ほんとにいいわね。見栄えがするし、何より言葉が通じるもの」
「うん、いい娘さんだ。健康そうだし、育ちがよさそうだし、とても正直者の顔をしている。純血の令嬢なら、ぜひとも嫁いできてほしいくらいだ。ときにドラコ、おまえはいい加減に花嫁のひとつも連れてこないのか?いい若者が、尻込みしているのではあるまいな」
わたしはちらと旦那さまを見た。今夜、婚約者の存在をお話しになるに違いない……そしてその瞬間がいま、来たのだ。
旦那さまはブランディのグラスをテーブルに押しやり、銀の燭台の上で、みっつの炎が揺らいでいるのを眺めていた。浅いため息を洩らし、そして微笑を浮かべた。


「さあ、お話しすべきことはいまはありませんよ」
「まったく、おまえまさか、一生独身を通すつもりではなかろうな。早々に孫を両親に抱かせようという気はないのか?」
「ほんとうですよ、ドラコ。この屋敷に一人暮らしなんて、さみしくて頭がどうにかなるんでないの?かわいいお嫁さんをもらってきなさい。きっと一人で暮らすなんて出来やしないことよ。純血であれば、資産家の娘でなくともいいのだから」
「そうですね。いずれまた」
「いずれなんて悠長な。25を超えたら、40まであっという間だというのに」
「ぼくはまだ23ですから、あと2年歳をとったら、40になるまで毎日ありがたく感謝しながら生きることにします」
「結婚した翌日に子どもが生まれるもんじゃないのだ。23なら、りっぱな青年ではないか」
「まったくお父上のおっしゃるとおりですよ、ドラコ。あんたはちっちゃなときから、ほんとに生意気癖が抜けやしない」
旦那さまが、ちらとわたしを見て、話を変えてほしげな視線をよこしてきたので、わたしはまごまごした。
なぜ旦那さまは、おっしゃらないのだろう、きのうのファンデーションとチークの女性のことを……。まだ黙っていらっしゃるおつもりなのだろうか?
「わたくし、ブランディ漬けのフルーツ・ケーキをお持ちいたしましょうか?」
「そうしてくれ」と旦那さまは言った。「このメイドはケーキもなかなかいけるんですよ……失敗しなければ。さて、そろそろお客さまがもうひとりいらっしゃるころだから、そのぶんも用意してくれ」
「………お客さまでございますか?こんな夜更けに」
赤々とした薪と燃えがらが、炎に包まって暖炉で燃えている。その上の置時計は、9時を少し過ぎたころをさしていた。旦那さまは「ああ」と素っ気なく言って、こんどは、しもべ妖精に賃金を払わなければならない時代になったことを、ご両親さまと議論しはじめる。
わたしはそっと食堂を出て、とぼとぼと厨房に向かった。厨房はまだ香ばしい肉や魚の匂いが漂っていたが、寒々としていた。フルーツ・ケーキにナイフを入れながら思った──お客さまとはその女性に違いない。ぎりぎりまで黙っておられるおつもりなのだ。ルシウスさまとナルシッサさまは、この旦那さまの計画に出逢って、ほんとうに驚かれるであろう。ことによると、お怒りになられるかもしれない。だが、これ以上喜ばしいことは、ないに違いないのだ。
ケーキを持って食堂に戻ると、会話の内容は、ハンプシャーのマグルたちが、とても横柄でたちが悪そうである、ということへ変わっていた。
「薄気味悪くて、ぞっとすることよ。魔法使いの存在を、マグルどもに明らかにしようなどという動きがあるけれど、頭がおかしいとしか思えないわ。ねえ、あなた」
「うむ……」
、あんたは混血でしょう?そのことについてどう思うの?」
「わたくしは、今まで何年も住み分けてきたのですから……これまで通り、必要以上に接近しないほうがよろしいかと存じます」
「そのとおりだわ。あんたがまともな娘でよかったわ。ねえあなた、わたしたちもメイドを雇いましょうよ。賃金を支払ってまで、しもべ妖精にいてもらう必要なんてないんですものね」
「そうだな、このケーキは本当に美味しい。ぜひメイドを雇ってみようという気にさせられる」
そのとき、来客のベルが鳴り響いたので、わたしはどきっとした。今か今かと待ちかまえていても、やっぱり驚かされる。旦那さまは、出迎えるために立ち上がった。ご一緒に参ろうとするわたしを片腕で制し、「おまえは、父上と母上をもてなしてくれ」とだけ言うと、そのまま食堂を出ていかれた。
「あんたは、チョコレートのケーキも得意なの?」
「レシピさえございましたら……。人並みにしか料理はできません」
「それにしても、盛り付けなど創意に富んでいるではないか。きっと仕事っぷりもいいのだろう」
「ありがとうございます」
黙って、意識を廊下のほうへやれたら、きっと奥さまとなられる女性が、どんな足音を立ててお越しになるかを、感じ取ることができただろう。だがわたしはにこにこと頬笑みながら、ルシウスさまのグラスにブランディをお注ぎし、ナルシッサさまの、さっきよりはずっとお優しげになられたお声を耳にしている。廊下には絨毯が敷いてあるので、よくよく注意をせねば、足音なぞ聞こえはしないのだ。
「ドラコはプレーンのシフォンケーキが好きなのよ、クリームに少しココアパウダーをいれたのを添えるの。あなたもたしかお好きだったわよね?」
「ああ。あの子とわたしは、家内の料理が好きなのだ。その家内がお嬢さんの料理を気に入っているのだから、息子もお嬢さんの料理が気に入りなのだろう」
「まあ」と言ったときに、食堂のチークの扉が音もなく開かれた。わたしが振り向くより先に、ルシウスさまがそちらに目をやった。
「お久しぶりです、きょうはお呼びいただけて嬉しいことです」
「長らく会っていなかったが、相変わらずのようだな」
「あら、お父上はお元気なの?」
そこには、ゴイルさまが気恥ずかしげに立っていらした。彼は、雪の付いた外套を脱ぎながら、わたしにも会釈をした。後に続いた旦那さまが、そっと扉を閉じ、席に着くようゴイルさまに促した。
、ゴイルにもブランディを」
「………か、かしこまりました」
「なんだ、変な顔して」
さん、久しぶり。ああ、ちょっとでいいよ、おれはとても酒に弱いんだ。ありがとう」
ゴイルさまはときおりお屋敷に遊びにいらっしゃるので、わたしも彼を知っていた。彼はとても大柄な、気のいい笑顔の持ち主で、旦那さまも彼とパンジー・パーキンソンさまのまえでは、少年のようなうちとけた笑みをお見せするのであった。
「お久しぶりでございます。本日は、お仕事はお休みでございましたのでしょうか?」
「いや、夕方までは仕事だったんだ。あすも仕事があるんだけど、おじさんとおばさんがいらっしゃると聞いてやって来たんだよ。さんにもしばらく会っていなかったし」
「さようでございますか、ごゆっくりとお寛ぎくださいまし。温かいお料理をお持ちいたしましょうか?」
「そうだね、じゃあ、すこし持ってきてほしいな。さんは夕食は済ましたの?よかったら一緒に……」
わたしがゴイルさまとお話しているあいだ、旦那さまが横目でわたしたちを見つめているのを感じる。しかもちょっと笑っていらっしゃる。それを一緒に感じていたゴイルさまが、痺れを切らしたように旦那さまを睨んだ。
「なんだよドラコ。なに笑ってんだ?」
「いや、べつに。露骨だと思ったんだ」
「な……おま、ばっかじゃねーの!?」
「グレゴリー・ゴイル。この屋敷にいるうちは、静かにお話しなさい」
「あ……はい、すみません、おばさん」
そのあいだにわたしは、厨房に行き、ゴイルさまのためにロースト・ビーフのサンドイッチとカレースープを戸棚から下ろした。
……ゴイルさま、だったのだ。もちろん奥さまになられる女性ではなかった。あのファンデーションとチークの持ち主でもなかった……。
では、本当に旦那さまは、まだご結婚なさるおつもりではないのだ。いったい、いつ頃になさるのであろう。ルシウスさまではないが、いつまでも独身でいると、あっという間に時間は過ぎて行ってしまうのに……。


それからあとは、みなさまで心ゆくまで会話を楽しまれた。ゴイルさまがいらっしゃる前までは、ややネガティブな話題が多かったが、そのあとは愉快な楽しいお話ばかりで、みなさまが頬笑んでいらっしゃった。
燃え盛る暖炉の炎、ほのかなお酒の匂い、談笑する楽しげな声。
窓の外では、粉雪がふたたび昼のように、大きな厚ぼったいひとひらへと変化して、露台の手すりや窓枠に圧し掛かっている。風が少し吹いているようであるが、けれども室内は暖かく、平和で、けしてだれにも妨害することはできない。そういった光景を、わたしも楽しむことができた。ルシウスさまは静かに、喉の奥でくつくつと笑い、ナルシッサさまは優雅に、歯も見せずににこやかに笑う。ゴイルさまは大きく口を開けて元気に笑い、旦那さまはにやりと笑ったり、あるいは肩をゆすって笑ったりなさる。
毎晩こうであればいいのに、とわたしは思った。誰の胸にも、いま、小さな悩みの陰りや不安は存在しない。会話の内容にのみ、健やかに集中して、その糸が途切れることはない。いまこの状況では、旦那さまがご結婚なさっていないことなど、てんで問題にはならないのだ。
「それじゃあ、そろそろお暇しよう。グレゴリー、おまえは泊まっていくがいい」
「そうですね、そうしようかな」
「父上と母上も泊まっていけばいいじゃないですか。あすはお早いんですか?」
「うむ、そうしたいのはやまやまだが……やはり今夜はよそう」
全員がいすから立ち上がった。ナルシッサさまは、わたしに向っておっしゃった……「ごちそうになったわね。今度は、12月31日の晩餐会でお会いしましょう。ハンプシャーの家でカウントダウン・パーティをするのよ。あんたのご主人さまと一緒にいらっしゃい。綺麗なお衣裳は持っているの?そりゃあ、盛大なパーティなのよ」。
「まあ、素的でございますね。わたくしもぜひ参加させていただきます。衣裳も、地味ですが、持っておりますので」
「よければ早めにいらっしゃい。うちのしもべ妖精にお料理を教えてやってくださらない?ほんとうに美味しかったわ」
「ええ、ぜひそうさせていただきます。お気をつけてお帰りくださいませ、お風邪など召されませんよう」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
ナルシッサさまとルシウスさまがお帰りになり、旦那さまとゴイルさまは、サロンへ移動なさった。きっとまだお酒を召し上がるおつもりなのだろう。わたしはあと一杯を飲み終えられたら、是が非でもブランディの壜を取り上げなければならないだろう。旦那さまとゴイルさまは、すでに頬を赤くしていらっしゃるのだ。
「ゴイルが泊まるから、客室の寝台を整えておいてくれ」
「ルシウスさまとナルシッサさまのために、すでに客室は用意が済んでおりますが……」
「ん?父上と母上を客室に泊めるつもりだったのか?今夜は両親が帰ってくれてよかった。もし泊まっていくことにしていたら、おまえは睨まれていただろうよ」
そう言い終えた旦那さまが、ブランディをさっそく一度に飲み干されたので、わたしは壜を取り上げた。それについて責めるようにわたしを睨みながら、旦那さまが続けておっしゃった。
「今後、両親が来たときは、西の当主の部屋へお通ししろ。そのためにカーテンも変えたというのに」
「…………」
「返事はどうした?」
「………あ、いえ、カーテンは、ご両親さまのためとは、存じませんでしたので……」
「ほかに誰のためにやるんだよ、あんな部屋。夫婦でなければうんざりするほど広い部屋なのに」
ちらとゴイルさまを見ると、ゴイルさまは、お手洗いのために、お部屋を出ていかれるところであった。わたしはためらいながら言った。
「いえ、わたくしは、旦那さまが、今夜は婚約者の方をお連れなさるのではと……。そしてご両親さまを驚かされるおつもりなのだと思っていたのでございます。ですから、移り住むために新しく西側を新調なさるのだと……」
「ああ、それで、きょう一日中おまえは、妙にびくついたり慌てたりしていたのか」と旦那さまは鼻で笑った。
「ええ……。勘違いをしてしまいました」
「残念ながらそれはない」
「そうですか、そうでしたらどんなに嬉しかったことでございましょう」
………本当にそう思っているのか」


わたしは、顔を上げた。
旦那さまもわたしを見下ろしていらっしゃった。そして隙をついてわたしの手から壜をするっと奪い取ると、にやりとお笑いになった。
「おまえももう寝ろよ。あとは好きにやるから」
「……………。だ、旦那さま!それ以上ブランディを召し上がると、お体に悪うございます」
「自分の体くらい管理してる。ほら、さっさと寝床につけよ。あすも早いんだから。ゴイルに朝食を出してやってくれ」
「それはかしこまりましたが、ですが……」
「いいからいいから。じゃあな」
サロンを閉めだされたわたしは、憤慨して廊下を歩いて行った。雪が降りしきる連続窓を眺め……静かな夜の空気に、そっと溜息を洩らした。
………心臓が、掴まれて揺すぶられているみたいに、激しく鼓動していた。