ちかごろは屋敷しもべの立場改善に向けての保護団体がうるさいので、旦那さまはしぶしぶ、マッド・ブラッドのわたしを雇う決意をなされた。旦那さまはまだ20代の若々しい青年で、広大な自然に満ちあふれた美しいマルフォイ邸のご当主だ。屋敷があまりに広すぎて、立派すぎるので、掃除魔法もまともにできないようなわたしひとりでは、毎日が目が回るように忙しく過ぎていく。
、入浴の準備をしてくれ」
「はい、旦那さま、ただいま」
「すこししたら出かけなければならない。ローブを出しておいてくれ」
「はい、旦那さま、かしこまりました。お出かけの際は、どのご衣裳を召されますでしょうか?」
「ぶどう酒を持ってきてくれ」
「なりません、旦那さま。ぶどう酒の時間には、まだ早すぎるかと存じます。お茶で我慢なさいませ」
「朝の間の掃除が行き届いていなかったが?マッド・ブラッドはしもべ妖精よりも愚図でのろまとみえる」
「申し訳ございません、けさは、朝市に買い付けに行っておりましたもので、これからすぐいたします」
、お茶を頼む。きのうのように、ひどい焼き菓子は持ってくるなよ」
「はい!ただいま!」
と、このような具合なので、とにかく料理にしろ掃除にしろ、どれも中途半端にしか済ませることができないありさまだった。




「………旦那さま、お願い事がございます」
「なんだ」
旦那さまは、安楽いすに坐り、むずかしい古書を開きながら、お茶を飲んでいらっしゃる。丸くて浅い茶わんから、紅茶の芳しい香りが漂っているし、銀の茶器からは、新鮮な湯気がそろそろと空気に漏れ出している。暖炉の炎が勢いよく元気に燃え盛り、白を基調としたこの部屋を、赤く染め上げていた。
「もうひとり、メイドをお雇いになられることは、難しゅうございますでしょうか?わたくしひとりの手では、とてもお屋敷を切り盛りすることはできませんもの。もし奥さまをお迎えになられましたら、どうにか、上手に指図していただいて、なんとかやれることはやれると思いますけれど」
旦那さまは眉間に皺をよせた顔で、本からわたしへ視線を変えた。
「ぼくに早く結婚しろとせっつけと、父上に命令されたのか?」
「そういうわけではございません」
わたしはおろおろした。たしかに、もしマッド・ブラッドにご理解ある奥さまがいらっしゃれば、うんとどっさりメイドをお雇いになり、わたしもかなり楽になる……という下心は、あったりするのだが。このお屋敷に、メイドはわたしひとりだなんてあり得ないし、旦那さまはマッド・ブラッドへの偏見がすぎる。混血は、そんなに悪いものではないと思うのに。
「べつに、このままでいいじゃないか。ぼくの屋敷がこれ以上穢れた血で踏み荒らされては敵わないからな。汚点などおまえひとりで充分だ」
「旦那さま、でも、このままじゃお屋敷は荒れてしまうかと存じます。3階のサロンの雨漏りの修繕は、わたくしひとりでは難しゅうございます」
「じゃあ大工を呼べ。コックを雇ってもいいが、純血の者だけにしろ」
「純血のコックなんて、気位が高すぎるし、給金はぼったくるし、まず使えないし、いいところなんてひとっところもございません」
「じゃあこれまでのようにおまえが頑張れ。今晩は海老が食べたい」
「……………。かしこまりました」
わたしは厨房に行き、暗いところでせっせと車海老に下味をつけた。それを冷蔵庫で冷やしているうちに、大急ぎで魚介類のソテーをこしらえ、それから勝手口にパン屋がパンを届けに来るので、代金を支払って受け取り、食卓の花を替えてから、リネンを取り替えに廊下を急ぎ歩く。こうしたことは、ふしぎなことに、慣れで解決されていく。日々が過ぎると、わたしはばたばたとする自分に慣れ、てきぱきと仕事をやっつけてしまう。だが、それでも失敗や物忘れはやってしまうし、わたしひとりでは仕事が多すぎて、どうにもならないのだ。
一番つらいのは、料理中に呼び出されることだった。その場を離れられないときにベルを鳴らされると、わたしはいちどに慌てふためいてしまう。
「あす、この手紙を出しておいてくれ」
「かしこまりました」
手紙を受け取り、お書斎を出ると、わたしはダッシュで厨房に戻る。そしてふたたび料理に取り掛かる。………
これでは、このお屋敷は本当に荒れてしまう、とわたしは思った。




「旦那さま」
「ん?」
「お願い事がございます、せめて、日雇いの者でも呼び寄せることはできませんでしょうか?」
「ふうん」
旦那さまは、新聞を繰り、その一面に心を惹かれているようであった。それからわたしのほうにちらと目をやった。旦那さまはぶどう酒を片手に、暖炉の炎の赤い光を、その白い顔と白いシャツに浴び、蠱惑するような、なんとも言えない美しさを、ぶどう酒の香気と共に漂わせている。
「さて、日雇いもメイドも嫌なんだが、ぼくは結婚すべきだと思うかい?」
わたしは空になった切子細工のグラスに、ぶどう酒をお注ぎしながら、口元に笑みが浮かべた。旦那さまは、たぶん今夜は酔うまで飲まれるおつもりのようなので、わたしがそうなる前に阻止しなければなるまい。
「旦那さまをお幸せにし、また旦那さまがお幸せにしてさしあげることができるご婦人がいらっしゃいましたら、どうぞ、ご結婚されるがよろしいと存じます。人生のうちに、そう言った素晴らしい相性のお方と出会えるなんて、めったにございませんでしょうから」
「小娘のおまえに訊くが、そういったご婦人に心当たりがないんだが、そういうときはどうすればいい?」
「旦那さまでしたら、どんな女性でも大切になされますでしょうし、いつだって素敵なお方に巡り会えるかと思います」
「さっきと言ってることが違うじゃないか」
旦那さまはくっと笑い、ぶどう酒を飲んだ。
「日雇い労働者なんて得体のしれない人間を屋敷に入れるなんてもってのほかだ。ああいった連中は、隙があれば銀器をくすねる技術ばかり持ち合わせている。できるなら純血の、貧乏貴族の家から奉公人がほしいところだが……」
旦那さまは新聞を折りたたみ、テーブルのふちに肘をのせ、頬杖をついた。ぶどう酒が、優美なグラスの中で、蝋燭の炎と同じようすでゆらゆらと揺れている。わたしは室内にふと訪れた沈黙にとまどいを感じた。
「……そういった心当たりはないし、しもべ妖精を秘密裏に購入してくるのはどうだろうか?」
「なりません、旦那さま、お取引先に保護団体の権威の方がいらっしゃるのでしょう?もし知られればことでございますわ」
「うん」と旦那さまは、不機嫌そうに肯いた。「そうだな」
「旦那さまがお望みなら、これまでどおりでもよろしいかと存じます。ですが、そのようにマッド・ブラッドと嫌悪なさっていらっしゃれば、ますますお屋敷は荒れてしまいますし、風評にも障るかと」
「わかったわかった。じゃあ、メイドを1ダースでも雇うがいい」
旦那さまはうんざりしたようすでそう言い捨て、クッションの下に置いていた古書を取り上げて膝に置いた。
「ほんとうでございますか?」
「そうしろと言っているんだ。だから、ばあやのようにぼくを監視するな。酔っぱらうほど飲みやしないのだから」
「………」
「おまえももう寝ろ。あすは早いから、おまえも5時には起きろよ」
「かしこまりましてございます」
わたしは、ピッチャーに、このくらいなら大丈夫だろうと思われる分量だけを注ぎ、ボトルを抱えて退室した。それから、いたる部屋の鎧戸を下ろし、家具に掛け布を敷き、蝋燭をすべて吹き消し、ようやく寝床についたのだった。




マルフォイ邸は、ぶなやはしばみ、けやきや、りんごやなしの木々に囲まれている。その森を、鬱蒼とした白樺がさらに覆っているので、このあたりを通りがかる人は「なんと厳めしいお屋敷だろう」と思うだろう。だが、そういった人々も、ひとたび白樺の森を抜けて正門を過ぎれば、すずらんやきんぽうげの草花、野うさぎの気配などののどかな風景に落ち着きを取り戻し、やがて、屋敷に近づくと、こんどは見事なばらのアーチや手入れの行き届いた芝、白く輝く車道、庭園の古風な様式美にはっとさせられることだろう。そういう過程を、ここに訪れる客人たちは、誰もが実感するのだ。そして玄関に入り、屋敷の荘厳さに驚き、この屋敷の持ち主に尊敬の念を抱くのだ。……
わたしは、素晴らしく美しい女性、見事なブロンドのうずまく髪状、まっ白い額……びろうどのような睫毛、濃いブルーの瞳の、たおやかで教養豊かなお方が、この屋敷を訪れるのを想像した。そのお方は、旦那さまの腕をとり、寄り添ってお越しになる。お出迎えに上がったのがわたし一人なのを見て、「召し使いは、このひとだけなの?さぞや大変でしょうねえ、ドラコ、もっと雇わなければならないわ。執事もコックも秘書もいるわ」とおっしゃる。旦那さまは、「、奥さまの意見をさっそくお聞きしろ。このご婦人は、来週マダム・マルフォイになられるのだから」とおっしゃる。奥さまは、とてもお優しくて、旦那さまによくお尽くしになられるだろう。旦那さまも奥さまをたいそう大切になさるだろうし、やがて、かわいいお子さまができ、わたしは、そのお子さまがやんちゃな盛りをすぎ、お年頃になられ、やがて「ばあや」と呼ばれるようになっても、このお屋敷に尽くすのだ。
わたしは、うす青い靄がかった、早朝の温室で、ばらをいくつか切り取った。みずみずしいばらの香りが、朝靄を無視してあたりにただよう。それを朝の間と食堂の花瓶に差し、厨房でクランペットを焼いた。バタや生クリームのいい匂いが立ち込め、クロワッサンをかまどから取り出し、ゆうべこしらえたオニオンスープをぬくめ、茹でた玉子や焼いたトマトを食堂に持ち込む。
旦那さまは、まだ寝ぼけまなこで、寝室から下りていらっしゃる。寝衣にナイトガウンを羽織ったなりで、つやつやした髪を下ろしたままなので、まるで10代の少年のように見えた。旦那さまは、かつては大旦那さまと大奥さまの3人でつかれたであろうだだっ広い食卓につき、ご自分でお茶を注いで飲みはじめた。体を元気づける食べ物の匂いが、朝の冷たい空気に入り混じっている。
「けさはひどく冷える。まだ12月にもならないというのに」
「はい、さようでございますね。雪が、こんなに積もったまま、ちっとも溶けはしません」
わたしは露台に目をやった。白樺もぶなもはしばみも、さまざまな花も、いまは、雪にうずもれてしまっている。冬は冬の美しさがあるが、旦那さまが奥さまとなる女性をお連れするなら、ぜひ春になされば良いのにと思った。この、いかめしく古いお屋敷に色と光をもたらす春。そのときなら、きっと心身ともに安心なさって、玄関を通り過ぎることができよう。
「旦那さま、けさは早くお出かけになられるとお聞きしましたが、どちらへ行かれるのでございますか?」
「レディングに行ってくる」
「お気をつけてお出かけなさいませ。では、わたくしは役場まで行って、メイドの求人を出してまいろうかと存じます」
「そうか」
旦那さまはそれきり黙りこみ、クロワッサンを食べ始めた。わたしはそのあいだに、朝お使いになられる部屋の窓を開け、掃除の魔法道具の力を借りて掃除していきながら、旦那さまの寝室に向かった。まだ体温と体を横たえていたくぼみがくっきりと色濃く残された寝台のシーツを外し、隣室の浴槽にお湯を張る。
そうした作業をばたばたと進めながら、旦那さまの横顔が、ずっと頭の中に残った……“そうか”。なんて残念そうにおっしゃるのだろう……。「けさは寒いので、お湯を熱めにお入れしてさしあげよう」と考えるわたしと、「マッド・ブラッドに、生まれ育ったお屋敷を汚されるのは、どういったお気持ちだろう」と考えるわたしがいた。だんだん、後者のわたしの意思が強まり、わたしは浴槽の湯に入浴料をかき混ぜる手を止めて考え込みはじめた。
わたしのような、生まれつきマグルの血の混じった人間からすれば、マッド・ブラッドとこのご時世に嫌悪する純血主義の思考は、排除されるべき存在で、冷酷な差別的人物なのかもしれない。けれども、わたしは旦那さまをお気の毒にしか思えなかった。
旦那さまは、お屋敷のお外ではずいぶん苦心して、嫌悪すべきマッド・ブラッドと握手なさったりお食事をともにされたりしなさっている。きっとご幼少の時分から、「マッド・ブラッドは素性いやしい存在」と教えられてお育ちになられたのだ。それが真実かどうかはどうでもよい。旦那さまにとっては疑いようのない事実でしかないのだ。
旦那さまは、よく我慢していらっしゃると思う。わたしのような人間の用意した食事をとり、わたしが触れた衣類にそでを通し、毎日わたしの顔を見なければならない。お屋敷が荒れていくのと、わたしのような人間に汚されていくのと、どちらのほうがつらいだろう?世間一般の常識を取り入れれば、お屋敷が荒れるのを防ぐほうをとるのはごく当然のことだ。
だが、その裏で、旦那さまはいろんなことに失望していらっしゃるに違いない……。
、風呂に入るから、ここはもういい。ぼうっとしてどうしたんだ?」
ナイトローブを脱ぎながら、旦那さまが浴室にいらっしゃった。わたしははっとして、蛇口をひねった。
お湯から湧き出る、もうもうたる湯気が、浴室に充満していた。
「いいえ、旦那さま、失礼いたします」
「ん?ああ」
わたしは浴室を後にし、早足で食堂に向って、食器を片づけた。泡だらけの食器をがちゃがちゃとさせながら、「おかわいそうな旦那さま」と思った。旦那さまが思い描いた、純血だけの優れたお屋敷は、もう実現しないのだ。それも、一介のマッド・ブラッドのメイドの意思で。
でも、わたしにどうすることができるだろう。わたしひとりでは、おそらくこのお屋敷の美しさにまで手入れできない。メイドのわたしと、週に一度やってくる庭師と、正門で見張りをする門番。この数少ない役職の者たちだけが、いまマルフォイ邸にお仕えしているすべてだった。しかも、わたし以外はみな純血なのだ。
ベルが騒がしく鳴り響き、わたしは慌てて浴室に向かった。扉の向こうで、旦那さまが「お湯があまりに熱いんだが、気を付けろ」とお怒りだ。わたしは自分が考え事をしながら仕事をするという、どの職業の人間にもあるまじきことをしてしまったことを、恥じねばならなかった。


「夕食には帰ると思う。留守をよろしく頼む」とおっしゃって、旦那さまは上質のローブを翻しながら、お出かけあそばした。
わたしは簡単に掃除をし、厨房で食事をしっかり取り、わたしの部屋に取り付けられた浴室で入浴を済ましてから、メイド服から持っているなかで二番目に上等な洋服に着替えた。おろしたての靴をはき、屋敷の中を点検してから、フルーパウダーを投げ入れる。
役場の暖炉から飛び出たわたしは、壁の掛け時計を一番に視界に入れた。旦那さまがお出かけになられてから、結構な時間が過ぎていた。
「わたくし、マルフォイ家の者でございます。使用人の求人を出したいと思いましてまいりました」
「どうぞ、おかけください。ご用件を承りましょう。マルフォイ邸に、人間の使用人がいらっしゃるとは存じませんでした。お宅さまもかなり開放的になられたのですねえ。しもべ妖精の数は、いまどのほど所有していらっしゃるのでしょうか?」
わたしは、この愛想のよい役人が、あとで「マルフォイ家のメイドが来たよ。あの家のしもべ妖精は何匹だと思う?まったくひどい、けしからんことだ」と噂したがっていることを、瞳を見て直感する。
「おりません、当家にはいま、妖精や幽霊はおりませんの」
「えっ、一匹もでしょうか?」
あきらかな落胆の色を見せつけられて、わたしは自分の気がきりっとさせられるのを感じる。これでは話のタネにならないので、この役人はがっかりしたのだ。
「ええ。ですから、こうして参ったわけでございます。あるていどの経験のある、お若いご婦人はいらっしゃいませんでしょうか?住み込みで募集をかけたいのですが」
「純血でなくともよろしいのですか?」
わたしは憤慨して、「ようございます。わたくしも混血でございますもので!」と言った。役人は、ようやっと自分の好奇心に恥じ入り、居心地悪そうに身じろいだ。まったく、なんという不躾な対応であろう。旦那さまでなく、わたしがやってきてよかった。旦那さまがいらっしゃれば、かなりご不快になられただろうから。
「では……働き手の婦人は、たくさんいらっしゃいます。ええと……たくさんお入り用とのことでよろしいですね?」
「ええ」
「少々お待ちください。ウィルトシャーに住む者………」
役人がファイルを指で探し始める。それは膨大な履歴書の数々のようで、紙のはしにいろんな顔写真が張りつけられてある。なるべく見栄えのする美しい娘にしよう、とわたしは思った。こんなにたくさんの若い娘が、働き口を求めている。きっとマルフォイ邸に来ることになる娘は、その恩恵を知り喜ぶであろう……。
いろんな紙の匂いと、それからコーヒーの匂いがした。煌煌と明るいシャンデリア。いろんな役人が、忙しそうに対応に追われている。見慣れない光景が、ここでは一日中毎日繰り広げられるのだろう。わたしは、自分が働き口を求めてやって来た娘でなくてよかった、と思った。働き手を求めてやって来た、すでに職を持った女でよかった。もし就職をさがしてやってきたなら、この役人の失礼な対応にも、まごまごするだけで、なんとも言ってやれることはなかっただろう。
「いま現在、ご当家にふさわしい婦人は、これだけございますね。お目通しを願います」
「ええ、では……」
わたしはたくさんの履歴書の写真と経歴に目をやった。これは、と思う娘もたくさんいた。みな、わたしとさして年齢の変わらぬ若い娘たちだ。美しくしとやかで、よく働きそうな娘たち。中には、行儀見習いのために募集している娘もあった。
「ご当家にはいま、ドラコ・マルフォイさまお一人がお住みですか?たしか、前ご当主さまがたは別邸のハンプシャーにお住いとお聞きしておりますが」
「ええ、さようでございます。それでもなにぶん大きな屋敷でございますから」
「そうでしょう、たくさんのご婦人をお雇いください。みな、いまお手に取られている分は、評価の高い方ばかりでございます」
わたしは力なく笑い、「そのようですね」と言った。
旦那さまは、マッド・ブラッドのメイドが増えることを、望んでいらっしゃらない。それを不可抗力のたぐいの、必要悪だと考えていらっしゃる。わたしは、さまざまな顔立ちの写真を眺めながら、旦那さまの横顔を思い浮かべる。わたしにも悟られないようにしながら、ほんとうは奥歯をぐっと噛んでいらっしゃったかもしれない。
奥さまを迎え入れられたら、きっと奥さまはお付きのメイドもお連れされるだろう。わたしがマルフォイ邸にお仕えして1年。そのあいだに、絶体絶命な、どうにもならない問題にぶちあたったことはあったろうか?旦那さまは、ちかごろ大旦那さまに口を酸っぱく結婚について干渉されていらっしゃるので、近いうちに奥さまをお連れなさるだろう。そうすれば、さほどメイドの数は必要ない。修理は大工を呼べばよいし、掃除も、どうにもならないわけでもあるまい。わたしが、いままでどおり、あくせくしながら、旦那さまがメイドを引き連れた奥さまをお迎えになるまで、どうにか頑張ればいいのではないだろうか?ものすごく大変だけど……お屋敷は荒れてしまうけれど……だが、荒れてしまったものはすぐにでも修復できる。どうしようもなくなったら、掃除婦を週に何度か雇えばよい。マルフォイ邸には、なにも巨人が100人も住んでいるわけではない。背は高いが、人間の旦那さまがおひとり住んでいらっしゃるだけだ。わたしが頑張ればよい。もっと賢く立ち回り、使えるものはどんどん使って。
「どの婦人がようございましょう?お気に召される婦人はありましたか?」
「どの娘さんも、みな、とてもよろしゅうございますね。さっそく来ていただきたいところですが、他国の役場にもまわってから手続きをしたいと思います。本日は、ありがとうございました。また寄らしていただきます」
役人はがっかりして、「さようでございますか、いろいろとご覧なされませ。ありがとうございました」とおざなりに握手をよこした。わたしは、悪いな、と思いながら、これでよかったのだと晴々した気持ちを感じた。こんなすっきりした気持ちは、早々味わうことが出来なかった。これでよかった。間違いなく。




夜、7時を過ぎたころ、旦那さまがお帰りになられた。出迎えたわたしに、ローブを脱いでよこしながら、「まったく疲れた一日だった」とおっしゃった。風が吹雪いて、室内の照明を浴びた雪が、あらぬ斜線を描いて降り積もっている。旦那さまはいつもより顔色がますます悪く、ほんとうにお疲れのご様子だった。
「お疲れさまでございます、旦那さま。ご夕食ができております」
「夕食はいい、食べる気分じゃない。ブランディを一杯持ってきてくれ」
「なりません、ひとくちでもお召しくださいまし。本日は、旦那さまのご好物ばかりでございますから」
「まったくおまえは」旦那さまは、襟の釦をはずしながら、「なりませんが口癖だな」と言った。
お着替えを済ませ、旦那さまは食堂にいらっしゃった。テーブルでは、熱い料理が湯気を立てて旦那さまを待っている。今日の献立は、前菜に冷たい料理を考えていたが、とても寒い夜にお帰りになられたので、温かいものに取り換えたのだ。

「なんでしょうか?」
「きょう、役場に行って来たんだろう?何人雇うことにしたんだ?」
わたしはにっこり笑った。旦那さまはそんなわたしを見て、訝しげに眉根を寄せる。
「何人雇うことにしたと思われますか?」
「さあ。おまえが100人なんて馬鹿げたことを言い出さなければいいんだが」
「その逆でございます。ひとりも雇うのをやめてしまいました」
わたしは嬉しくて、口元をむずむずさせながら言った。旦那さまは、ナプキンを広げる手を止め、わたしを見る。その顔は、近頃見た中でもっとも血色のよい、健康そうなものだった。あんなに蒼ざめて、お寒そうにしていらっしゃったのに。
「ふうん」
「ひとりも、よさそうな娘さんが見当たらなかったものですから。わたくしひとりでも、やれることはたくさんございますでしょうし、掃除婦に週に何度か来てもらおうと思いましたので」
「そうか」
旦那さまは素っ気ない態度をお取りだが、喜んでいらっしゃるのは見て取れた。主人が喜ばれるのは、この上なく嬉しく、気持のいいものだ。
「それじゃあ、かまどや調理器具や掃除用具を一新させてもいい。魔法道具も、ちかごろは自動的に動いてくれるものが多いらしいし、おまえの役に立つだろう」
「ありがとうございます、旦那さま。さっそくカタログを取り寄せますわ」
「だが、魔法の茶器は買うなよ」
旦那さまの一言に、わたしは目を丸くした。
「おまえの淹れた紅茶は、とても美味いのだから」
それから、「ブランディを持ってこい」と続けざまにおっしゃったので、わたしも、きょうはたくさんお酒を召されても、なりませんとは言わないようにしようと思った。それは、働き蜂みたいにばたばたし続けた1年に報いる、あまりにも嬉しい一言だった。だから、さっきから笑顔が消えなくとも、仕方のないことだし、隠す必要もないのだ。きっと旦那さまも、ほっと安心して、思わず笑顔を浮かべていらっしゃるだろうから。