風邪をひいて医務室に行ったらとなりのベッドにドラコ・マルフォイが寝てました。
「なにやってんのあんた」
マルフォイは、わたしと同じように風邪をひいて、ぐったりと枕に顔を押し付けている。乱れたプラチナ・ブロンドの髪が、白くぱりっとした枕に広がって、それがどれほど滑らかな手触りをしているかが、見ているだけでわかるようだ。
「……おまえかよ、。見てわからないか?死にかけてるんだ」
「そのようですねー。わたしもなんだ、奇遇だね」
わたしもマルフォイも、ぜえぜえしながら、高熱にうめくのを我慢して、弱り切った天敵のすがたを嘲笑っている。
マルフォイは頬を薄い桃色に染めて、額に滲んだ汗を手の甲でぬぐった。わたしも首に貼りついた髪を払い、横目で睨んでくるマルフォイに必死で応戦する。
こんなやつに負けてなるものか!という気持ちが、さっき飲んだ睡眠薬よりも勝っているのだった。自分もたいそうみっともない形相をしているのだろうけれど、そんなことは棚に上げてしまって、マルフォイがいかに弱っているか、みじめで哀れっぽいかを、わたしは記憶に焼きつけた。
「マルフォイ熱何度あるの?わたし、38度5分」
「38度2分」
「勝った。よーし」
「おまえのほうがくたばり損ないってことじゃないか、ばかだな。なにが勝っただ」
「そう言うわりに悔しそうですね?ん?」
おまえすこし黙れ」
マルフォイはわたしを睨みつけると、布団を顎までかぶって目を閉じる。わたしはぼうっとする頭で彼を見詰めた。こんどは、あいての弱点をあげつらうような、意地の悪い他意はなかった。たぶん。
「なに見てるんだ、見世物じゃないぞ。おまえも寝ろ」
「いやいや、見世物でしょ。その顔は見世物にすべきだと思うよ。黙ってればいいのにねえ……」
「どういう意味だ?おまえの顔も見世物にしてやろうか?」
マルフォイは身じろぎ、寝心地が悪そうに枕をゆすってため息をついた。わたしもマルフォイも、ろれつの回らない調子でしゃべるのはいい加減にしたいが、真昼間の日の高いのうちから眠気がやってくるわけでもない。したがって、起きているあいだは、この詮なき争いを続けねばならなかった。
……というほど睡眠薬の効き目が弱いわけもなく、つぎにわたしが目を覚ましたとき、すでに視界は暗闇のとばりに包まれている頃であった。


「………」
自分が眠っていたという意識はなく、まばたきをしていたら突然昼夜が逆転したかのように錯覚したので、わたしは状況を把握するまでしばらくフリーズしていた。なんだか、しんと静まり返っている。真っ暗闇で、空気が冷たく水分を含んでいる。
眼球だけを右隣に動かすと、ベッドを囲むカーテン越しに、隣のベッドとそこで眠る人影が、青白い月明かりに透けて見える。ああ、あれはマルフォイだ。マルフォイも眠っているらしく、よく見ると幽かに胸のあたりが浅く上下している。
わたしはふとトイレに行きたくなって、まだ頭がぼーっとするのをどうすることもできないまま、ベッドから起き上がった。ベッドの下の敷物には、スリッパが並べて置いてある。わたしはそれを履いて、ぺたぺたと冷たい床の上を歩き、トイレへ向かった。ぼんやりと歩いているうちに、いよいよ尿意は本格的になり、途中から小走りになった。頭の中が鈍いままなのはたぶん薬のせいでもあるのだろう。おかげで妙な心配……たとえばゴーストが鏡に映っていたら……後ろからついてきていたら……などという不安も抱くことなく、わたしは無事医務室まで平常心で戻って来た。そしてベッドに入り、目を閉じた。




きっと次に目を覚ますときは、心地よい朝日がやさしく目蓋を撫で、その眩さにわたしは伸びをすることだろう……そう感じるくらいの気持ちのいいベッドの中。シーツはぱりっとしていて真新しいけれど、自分の体温を含んで、それはすでにわたしの所有物、わたしを保護する物のように思える。わたしは寝返りを打って、薄目を開けた。わたしの目蓋を撫でているのは、朝日ではなく、月光であった。
「………」
さっきトイレに行ってから、どうやらさして時間は経っていないみたいだ。わたしは小さく伸びをして、またごろんと寝返りを打った。そうすると、すぐにマルフォイの肩にぶつかったので、わたしは「あ、ごめん」と言って、逆方向に寝返った。元の位置に戻った。
「………ん?」
え……。なんでマルフォイにぶつかるの?わたしとマルフォイのベッドとベッドの間には、カーテンの敷居があったはずだ。マルフォイは月光の中で、ますます青白い、石膏のような横顔をして眠っている。月光と同じ色のプラチナブロンドの髪が、額に掛かって、いつもより少しばかり幼く、育ちのよいお坊ちゃんのように見える。長い睫毛と白い瞼。いつもは嫌味な具合に軽蔑と嘲笑を浮かべているくちびるが、いまは美しく引き結ばれている。わたしはしげしげとマルフォイを見詰めた。
どうしてわたしの10センチとなりで、マルフォイが眠っているのだろう。これではまるで、同じベッドで眠っているようだ。
「………まさか………」
わたしは、ある疑惑に心臓が強張るのを感じた。わたしは、左隣にそっと目をやった。そこには、わたしがさっきまで眠っていたベッドが、わたしを待っているように存在していた。隔たりのカーテンは乱暴に押しあけられている。
まさかトイレの帰りに間違えてマルフォイのベッドに潜りこんだんじゃ……。
というか絶対そうだよね。わたしはギャーと叫びたくなるのを寸でのところで抑え、深呼吸をしてから、マルフォイが起きないように、起きないように、慎重に、そーっとベッドから降りた。……
こういうとき、たいがいの場合、マルフォイは目を覚ますものだ。多くの筋書きに“お約束”というものが存在するけれど、その法則は、現実にだって充分に起こりうる。わたしは、敷物に足をつけ、床に立った。そしてそっと後ろを振り向いた。
「ん……」
眉間にしわを寄せたマルフォイが、身じろぎをし、こちらに向き……かけて、向こう側に寝返りを打った。もし状況が許すなら、わたしは両手を組んで神に祈りを奉げたであろう。けれども、まだ油断してはならない。“寝返りを打った”ということは、いまマルフォイは眠りが浅い状態だ。わたしは改めて息を殺し、自分のベッドに向かうために一歩進んだ。なにがなんでも、わたしは間違えてベッドに潜りこんできた女であってはいけなかった。その事実を知っているのがわたしだけなら、それはわたしではないということにできる。忘れてしまえばいいだけだもの。けれど、マルフォイに知られたら、わたしはきっと一生部屋から出てこないだろう。
「………
「ひっ。」
もう一歩。というとき、掠れた声がわたしの名前を呼んだ。
背筋がぴんと強張り、わたしは恐ろしさのあまり冷や汗が流れるのを感じる。怖くて後ろを振り向けない。心臓がばくばくと早鐘のようだ。
わたしは、こわごわ、泣き出しそうになりながら振り向いた。
けれども、意外なことに、振り向いた先のマルフォイは、相変わらずむこうを向いたままぴくりともしない。わたしは息を殺してマルフォイの顔を覗き込んだ。マルフォイは、どうやらまだ眠っているらしかった。
なに!?なんなの!?寝言!!?
夢の中でもわたしを小ばかにしているんだろうなあ……と思うのは腹が立つけれど、いまはもうそれでもいい。どうぞ夢の中でわたしを罵倒するなりお好きになさってくださいませ。けど、絶対わたしに気付かないで!
あと一歩、もう一歩、やっと一歩。
わたしは、そろそろと自分のベッドに腰を下ろし、音をたてないようにそっとカーテンを引いた。わたしとマルフォイの間には、正常にカーテンという隔たりが生まれた。ああ!わたしはついに無事だったのだ。マルフォイに気付かれず、わたしは上手に自分の陣地に帰りつくことができた!
それに、薬もすっかり効き目があって、もう体の疲労感は取り除かれていた。わたしはいま、やり遂げた達成感と、自分のベッドにいるという安心感に包まれている。そしてそのまま眠りにつけばいいのだ。
そして目蓋を閉じ、まどろんでいると、隣のベッドが幽かに軋む音を立てたのが聞こえてきた。薄目を開けて見ると、カーテンを透けて、マルフォイの影が浮かび上がっている。彼はベッドに腰をおろして、窓のあたりを見詰めているらしかった。その影は、はあ、という深いため息を洩らした。
マルフォイはそして、ベッドサイドのキャビネットに置いた水差しから、ガラスのコップに水を注いだ。それを一口飲み込み、コップを元の位置に戻した。コトンと音がする。
そう言えばわたしものどが渇いたなあ……マルフォイが寝たら、わたしも水を飲もう。いまわたしが水を飲んだら、わたしが起きているのがばれる。そうなるとまた喧嘩になる。この静かな夜更けを、くだらない口喧嘩で汚してしまいたくなかった。わたしはわざと、寝息のように深く深呼吸をした。
あれ?そういえば、さっきは気にも留めなかったけれど。
マルフォイのやつ、寝言でわたしの名前を囁いたとき、ファーストネームで呼ばなかった?
掠れた、くぐもった、そして聞いたこともないような穏やかな声が、と呼んだ。それは確かに、わたしの鼓膜に焼きついていた。
………なんで?
そのとき。
シャッとカーテンを乱暴に引き開ける音がして、わたしはぎょっとした。薄目を開けると、マルフォイが隔たりであるカーテンを開けて、わたしの顔をじっと見詰めている。
え!?なに、なんなの?寝顔にマジックで“肉”とでも書きに来たの!?
なんて慌てふためいているわたしなど気付きもせず、マルフォイはぺたりとスリッパの足音を立てて、わたしのベッドまでやってきた。そして、わたしのベッドのふちに腰を下ろし、右手でそっとわたしの額に触れる。硬い骨の感触が、わたしの額を撫でた。
「起きているんだろう?」
「…………」
なんのことでしょうか。
わたしは寝ていますよ。熟睡してます。話しかけないでください。
「本当に眠っているのか?」
マルフォイはそう囁き、しばらくわたしの反応を待っているようだったが、ため息をついて顔をそむけた。わたしは二度目の勝利を手にした。マルフォイは、どうやらわたしが本当に眠りこけているものと感じたらしい。ばかめ、詰めが甘いのだ。
「…………」
彼はわたしの髪を撫で、わたしの額や頬にかかった髪を払いのける。その手は、どこか不躾で、なんにも悪いことをしているようなこそこそしたところがなかった。まるで、寝ている女の子の領域にやって来て、勝手に髪やおでこに触れることが、至極まっとうなことのように。
ふと、マルフォイは忌々しげに、深くため息を吐いた。そして、わたしのあごのところまで布団を引き上げると、気だるそうな動作で立ち上がった。
「鈍いにもほどがある」
マルフォイはカーテンを引きながら、「気付いているくせに」と吐き捨てる。カーテンがぴしゃりと閉まると、再び自分のベッドへ潜りこんだのがわかった。それからマルフォイは、わたしが知る限りでは、ひとつも身じろぎさえしなかった。わたしも同じ体勢のまま、ぴくりともする事が出来ず、暗闇の中でまばたきをしていた。


………とりあえず。
熱はどうやら、ぶり返したらしい。マルフォイの長い指が触れた額が、やけどしたように熱を含んでいる。心臓がばくばくとうるさいし、息苦しいし、頭がぼーっとするし。
ところでマルフォイは、さっき何がしたかったのだろう。何の意味があってやって来たのだろう?
それを本人に訊いてみるのは、熱が引いて完治してからでもいいし、いま現在、息を殺して夜が明けるのを待っているこの瞬間でもいい気がする。
ねえ、起きてる?熱はまだある?もうしんどくはない?
ねえ。
とりあえず。
「わたしのこと、好きなの?」と訊いてみたっていいだろうし、そのあとに「わたしも実は」と続いて言ってもいいと思う。
わたしは大げさに咳払いをして、マルフォイに「起きてますよアピール」をする。
それから、「ねえ」と声をかけた。