まわりがしんと静まり返る。誰もが平伏しているように、わたしも右に倣って床に額をつけていた。天下の公方様のおわす江戸城といえど、台所によもやその御方ご本人が現れるとは思いもしなかった。だがその御方はたしかに、誰が命じたでもないのに、歩くだけで万人を平伏させる力を持っているのだった。
ゆったりと歩いてきた、白足袋のきれいな足が、こちらにやってくる。
その足が、わたしのまえで立ち止まった。
彼がじっとわたしを見下ろしている視線が、うなじに突き刺さっていた──

「その方、名はなんと申す」

……おだやかで、くぐもった声だった。
生まれて初めて聞く声質だ、と思った。声にまで、気品があるような。
だけどまさか、
まさかその一言が夜伽の御指名になってしまうなんて。


……と言ったな。おもてを、上げてくれないか」
お香の焚き染められた寝具、江戸城、将軍の閨。
絹の錦の御簾が、羽二重の布団を天蓋のように取り囲んでいる。四方を覆う黄金の襖が、ぼんぼりの炎しかない寝所を、てらてらと濡れたように照らし返している。
わたしは江戸城の本丸に拘束されて、お風呂に無理やり入れられ、お化粧を施したあと、純白の絹の夜着を着せられている。なにがなんだかわからなかったけれど、名を訊かれたことで人生が一変してしまったことは理解できていた。──理解できていないのは、なぜわたしなのかということ。

「………」

平伏の姿勢から、ためらいつつ、そっと顔を上げると、上様の首から下が視界に入った。わたしを見て、浅くため息を洩らしかけて、口をつぐんだのが見えた。
「……、」
お顔を見るのは失礼かと、ずっと焦点を彼の白い夜着に合わせていたけれど……困ってしまって。上様は黙りこくっておられるし、どうしたらいいのかよくわからない。当然ながら、このようなことは初めて、だし……上様なんて、雲の上の御方だから。



……
名を呼ばれたことに不意に反応して。
わたしはついに、その御方の顔を見つめ返してしまった。
その人は頑固そうな口許、ほりの深いお顔立ちの、若いがっしりした男性だった。
眉がきりっとしていて、意志の強そうな口角のくちびるをしていて。
いかめしく寄せられた愁眉が、不満げな影を顔全体に落としている。

言葉もなく、目をそらすこともできず、無遠慮に見つめてしまった。
わたし、上様って、黄金のお釈迦様みたいなお姿をしているんだと思っていた。
だが目の前にいるこの御方は、整った月代と高貴なお召し物を着た、生身の肉体を持つ、端正な男の人だった。

なんだか、そのお姿を認識したら、
夜伽という言葉が現実味を帯びてくる。
なんで、わたしなんだろう……。


「……、大丈夫、か?」
「……、すみません。ぼうっとしていて……」
「無理ない。ずいぶん急なことだった」
「……」
「……聞くところによると、菓子屋で働いているんだってな」
「……そのとおりに、ございます」
「町でなかなか人気らしい。この江戸城の台所に呼ばれるほど」
「……女中の方々に、御贔屓にしていただいております。」
「おまえが作っているのか?」
「……いいえ、修行中なので。わたしの作は、まだ」
「そうか。一度、食ってみたいな」

呼吸の間に置かれた、吐息の余韻が耳に残る。
くらくらして、わたしは手に力を籠めた。上様の御膳にわたしの作った菓子が上がるなんて、わたしが夜伽に命ぜられたこと以上に信じがたい話だ。

「上様、わたしはまだ修行の身で、とても御前にお出しできるほどの腕では」
「ああ。聞いている。」
「ですから、一人前になって師に認めてもらうまで、」
「ああ。わかった。」

と言って上様は、
「楽しみにしている」
ふと、微笑した。

堅苦しい表情なのに、なんてやさしい顔をするのだろう。
それに、すごく苦労してきた人の目をしている。
上様なのに、どうしてだろう。

「……だが城暮らしでは、修行などできないか」
「……」
「それではおまえは、この城に閉じ込められる気はないんだな」
「……はい」
「……」
「……」
「……そうか」
「……」
「すぐ、駕籠を手配しよう。突然こんなところに閉じ込めてしまって、すまなかった」
「………、」

彼は目を細めた。きれいな髭の下で、くすんだ色のくちびるが、そっと淡いため息をこぼした。

「でも、ここから二度と出ることは罷り通らぬと言われたのですが」
「なにやら、そういう仕来りがあるらしい。だが大丈夫だ。なんとでもできるから、心配するな。ちょっと待っていろ。話のわかるやつを呼んでくる」
「………、……あの、上様。」
「なんだ」
「恐れながら、お聞かせくださいまし。上様は、よろしいのですか?」
「?」
「わたしを、その……」
「ん……ああ。帰らせてしまって、か?」
「はい……」

上様は一瞬黙って真顔になってから、ふっと笑った。笑ったのだけれども、眉間を微かに寄せている、なんだか困ったような顔だった。

「……実は俺も、声を掛けただけでこうなるとは、知らなかったんだよ」
「え?」
「仕事を終えて寝ようとした、ついさっき聞かされてな。昼間のむすめを、閨に待たせてあると」
「………」
「だから強制する気はないし、おまえが気を遣うこともない。帰りたいならもちろんすぐ送り届けるつもりだ」
「……」

「はい」
「巻き込んでしまって、すまないな」
「いえ、そんな……」

目を伏せた上様のまなじりに、放射線状のしわが寄る。
一度首を振って、うつむいた。

こんなに偉い御方が内省して謝罪するなんて、信じられないし恐れ多いことだった。
それに、上様はわたしなんか御所望だったのではない。
ただ城内にいた庶民の女に、一言声を掛けてやっただけだったのだ。
わたしなんかより上様のほうこそ、お困りになったに違いない。ただ受動的でいるしかないわたしよりも、上様は、采配を下さなければならないのだから。それなのにこんなにも、おやさしいお声を掛けてくださっているのだ。

合点がいくと、ほっとしたような、体から力が抜けたような。
とにかく、わたしの日常は守られるようだった。

「……」

すっと立ち上がって、上様は畳台を下りて、御簾の外に出る。壁の黄金の襖を開けて現れた壁の、豪華な火灯窓を開いた。

「そんなところにいないで、こっちへ来てみないか?」
「はい」
「ここからの眺めなら、たぶん話のタネにくらいはなるだろう」

御簾を出て、窓べに並んでふたりで立つ。
荘厳な曲線美の窓から眺めた景色──それは濃紺の夜の色にとっぷりと沈んだ城下町を一望する光景だった。高いところにあるお月様の、冷たくしとやかな光が、小さな豆粒のような家々の屋根を照らしている。ころんころんと敷き詰められて、川底にある石粒のような光景だった。
地平線に向かって、家屋の輪郭は夜空の中に霞んでいった。
わたしはいま、とても高いところにいる。
とてもとても高いところに。
そう認識すると、膝下がふわふわするような、奇妙な心地よさと恐ろしさを感じた。城から見下ろせるということは、あの家々は武家屋敷であって、普段すれ違うだけで委縮してしまう恐ろしいお侍たちが住んでいるところだ。それに囲まれるようにして守られながら、いまとなりにいるこの御方が、政務を取りしきっておられるのだ。この国のいただきにいる御方なのだ……めまいがする。

「なかなか珍しい眺めだろう?俺も、この職に就いて初めて見たとき驚かされた」
「………圧倒されてしまいます。………こんなに、高いところにいるだなんて………」
「この江戸を一望できる眺めだ」
「………、」
「本当は城内の案内でも、と言いたいところなんだが。……からくりが多く女を連れ回すわけにはいかなくてな」
「そうなんです…か?」
「ああ。住みたがるやつなどいない」

胸が、ドキン、ドキンと、痛いほど脈打っていた。
大げさかもしれないけれども、空を飛んでいるような気分だった。
こんなところに立って、上様のとなりにいて、罰が当たるのではないだろうか?
……はっとして、かたわらにいる上様を見上げる。
彼は、わたしの言動をじっと見つめていた。彼のなめらかなお顔や首筋の素肌を、一葉の薄絹のようなやわらかな月光が照らしていた。太い首筋と、尖って浮き出た小さな喉仏が、眼前にある。夜という暗がりの中で、白い絹の夜着が、青灰色に見えた。
わたしの知る男の人の中で、誰よりも背が高くて、均整の取れた体躯をしていて、腰回りがしなやかで、そして誰よりもお肌がなめらかだった。怒ったような眉、たれ目がちの二重目蓋。豊かな涙袋と、長い睫毛。わたしの知る誰よりも、やさしそうで、真面目そうで、哀しそう。……それに、誰よりも恰好いい。……上様じゃなくても、ぼうっとなってしまうくらい。


「……。」
「はい……」
「……おまえ、心に決めた男は、いるのか?」
「え?」
「たとえば……いいなずけや、惚れた男が」
「え……、いいえ。おりませんが……」


「よかった」
と短く囁いて、上様はわたしから景色に目を向ける。
どきどきして、わたしは黙りこんだ。上様もすこし身を乗りだして、遠景を眺めたまま黙りこんでいる。
よかった……って、なんで……


「菓子作りの修行、頑張れよ」
「は、はい。頑張ります。上様の御膳にはやくお出しできる腕になれるように」
「ああ。……」
「………」
「……また会えるか?」
「………」
「命令じゃ、ないんだけどな……」


──
こくん、と無言でうなずいたら、
上様はもう一度「よかった」と言った。

「でも、どうして……」
「いや、口説いているからなんだが……」
「……え、」
「……」
「あ……そう……なんですか」


──昼に名を訊いたのも、率直に、知りたかったからなんだ」
「………。」
「こんな形になってしまったが……つぎは、是非茶でも馳走させてくれ」
「………あ、……は、はい……」



ドキン、ドキン、と心臓がはちきれそうだ。
赤くなって、ますます無口になってしまうわたし。
上様は、小さく咳払いするように喉を転がした。

もし上様が上様じゃなかったら──もし近所に住む人だったら、わたしはきっと、遠慮や畏怖の念など抱かず、素直に恋に落ちていたんだろうな。
ううん、もしかしたら、上様のままでも──すでに。



「おまえの店は、あのあたりだろう」
「え?……、あ。そう、かな。漉し餡饅頭ののぼりが目印なんですけど」
「……目を細めたら、それらしき文字が見える。あれだな」
「お目がよろしいんですね」
「あの店の裏がおまえの家か?」
「はい。そうです」
「そうか。よくわかった」
「……」
「たまにこうして眺めていよう。運がよければ、おまえの姿を見れることもあるだろう」
「あ…じゃあわたし、外に出るたびにお城の上様にお辞儀します。わたしもお城を見上げます」



上様は小さく、口許をほころばせた。細めた目の、長い睫毛が扇状に広がった。
表情のひとつひとつの皺や影に、彼の人柄の思慮深さ、丁寧さを感じた。
きょうのこと、
きっと宝物になる。
……わたし、この御方のことがもっと知りたい。





「そろそろ駕籠を呼ぼう」
「あ、はい、…………でも、もしお時間いただけますならば」
「……もうすこし、話でもしていくか?」
「はい、上様がよろしければ……」
「……」





もうすこしだけが、許されるなら。
──返事の代わりに、上様はそっと笑う。

いとしい、と思ったら、
白金色の月光が、ふわり、佳き人のやさしさを照らした。