「最近おまえよう来とるなあ」
お盆を持ったわたしが会長室に入るなり、真島さんは言う。彼は自分から手を伸ばして、早く茶碗をよこすよう促してくる。きょうの定例会で何人が集まったのかは知らないけれど、すでに室内には真島さんと柏木さんしかいなかった。
大吾さんは別室に移動したようで、いない。
なんだ……。
露骨にがっかりしたのが顔に出ないようくちびるを引き結ぶと、真島さんのじろじろと眺めてくる隻眼と目があった。
「なんですか?」
「ここでアルバイトでも始めよったんか」
「いいえ。ただ立ち寄っただけですよ」
「ほぉーん」
会長席の近くでバインダーを開いていた柏木さんが、「。こっちにもくれ」と声を掛けたので、わたしは真島さんから目を逸らした。午下がりの陽気が、レースカーテンを透けてまろやかな白で室内を包んでいる。重厚かつ贅沢なしつらえの部屋だが、絨毯や壁紙に華やかな模様があるわけでなく、女性的なデザインが一切ない。会長席の近くには鹿の角の刀置きがあって、東城会の代紋の壁掛けがある。いかにも武力と権力で作られた、任侠映画に出てきそうな部屋だ。
この静謐さにも、気持のいい梢ごしの陽光にも、ただ自然にあるがままなのではなく、人の手が介入した、一種独特の緊張感が感じ取れる。ぴりぴりする、真面目な気持にさせられる、そんな、独特の。
わたしはこの部屋が好きだった。
大吾さんの気配がするから。


「……はなんや男でもできたんとちゃうか?」
「……できてませんよ」
真島さん、きょうはしつこいなあ……!
暇つぶしのターゲットにされてしまった。その証拠に、真島さんはずっとわたしから視線を外してくれないのだ。
「大吾に付き合うてもろたんやろ?」
「そんなわけないでしょ!!」
「ほぉかあ?照れんでもええやないの」
ケッケッケと真島さんの嫌な笑い声がこだまする。柏木さんはぶつぶつ言いながらバインダーの記事を読むのに熱心で、とてもわたしを助けてくれそうにない。
「惚れとんのやろ、バ〜レバレや!白状せえ」
「ままま真島さんには全然関係ないです」
「あれはおまえのことなぁんとも思うとらんやろうけどな!」
「……」
うっ……!
気にしていることをズケズケと……!さすが真島さん……!
けれどそこまでサッパリ言いきられてしまうと、なんだかまあいいかという気がしないでもない。その事実は胸に突き刺さってたしかに手ごたえになった……反論の余地はない。
大吾さんはわたしのことなんて、本当に何とも思っていない。
きっとわたしが“好きです”と言おうものなら、“へえ、なにが”と優しく訊ねるのだろう。そんな光景が目に浮かぶようだ。
柏木さんが顔を上げてちらとわたしを一瞥する。だが静かにまた紙面に目線を戻した。


「まあでもこれから頑張ったらええんや。な!おっちゃんがなんぼでも協力したんで!」
「うう……結構です!!」
「おもろいなあ。おまえのそーいうとこ素直でええわ」
くつくつと笑う口元を革手袋の指で抑えながら肩を揺らす。真島さんなんかに協力されたら一日でわたしの秘めたるハートも木端微塵にされてしまうに決まっている。想いつづけるにせよ、失恋するにせよ、勇気を出してアタックするにせよ……すべて自分の価値観に従って行動しないかぎりは後悔するに違いない。
「……うるさいぞ、真島。も会長室で騒ぐな」
突然、柏木さんの柔和で乾いた声にたしなめられた。わたしは押し黙ったけれど、真島さんはまだヒッヒッヒと笑っている。
「まあええやん。こいつが六代目ェのイロなったら柏木のおっさんも面倒減るやろ」
「荷物が増えるだけじゃねえのか」
(えっ、ガーン……)
「六代目にはちーと息抜きが必要やと思うんやがなあ」
「あいつはもっと勉強することがある。息抜きなら俺の知らんところでやってもらいたい」
「やって、。残念やったなあ〜若頭が石頭ときたもんや」
「………」


さんざんいたぶられたようで心が疲弊しているけれど、でもいい。そんなことは。
大吾さんは忙しくて、やることが多くて、疲れていて、でも休んでいられない身なのだ。だからわたしはせめて、彼の邪魔にならないようにしなければならない。決して妨げになってはならない。そのためにはこうして顔を見に来ること自体許されない事なのかもしれない。下心を抱いてちょくちょくやって来るわたしなど、客観的に見ればお荷物でしかないはずだ。
(柏木さんの言うとおりだな……)


しゅんとしていると、柏木さんが煎茶を静かに飲んで、茶托に茶碗を置く動作が横目に見えた。なんとなくその仕草に、大吾さんを彷彿としてしまう。大吾さんとの付き合いの長さが伺える。
「……」と柏木さんは、太い喉仏を忍ばせた首筋を上下させた。
「きょう暇なのか。ならまあ、メシでもどうだ。六代目と焼肉屋に行く予定なんだが」
「え……っ」
うそ、いいんですか……!?
「行きます……!!」


柏木さん優しい……!
大吾さんと晩ご飯……!思いがけないお誘いに飛びつくと、柏木さんは眉をひそめて微かに笑った。それはすぐ、きびしい顔に掻き消されたけれど。
「……ケッ、結局一番息抜きさせとるやないけ」
わざと大仰に抑揚をつけて真島さんが言う。
まるでおもしろくなさそうに悪態をつくけれど、たぶんそれはポーズだろう。
真島さんがあんな話題を振ってくれたからこんな展開を向かえることができたのだ。よかった。
大吾さんと柏木さんはお仕事のお話をするのだろうから、わたしが焼き奉行だ。頑張って焼こう……!おいしく焼いてたくさん食べてもらおう。すこしでも役に立たなくちゃ!


「まあ成就したあかつきにゃぁ俺もなんかご馳走したろ」
「………それ、叶う日が来るんですかね……」
「惚れとるんやったら命懸けでタマ取って見せんかい。それでアカンかったとき初めて弱音吐けばええ、おまえまだ何もしとらんねやろ?」
「そうですけど……、でも……、」
「ええなあ〜恋でそないな顔すんのか。人生でいっちばん楽しいときやなあ」
応援してくれてるのか、茶々入れたいだけなのか、真島さんってよくわからない。
何か言おうとしたとき、かちゃりと扉が開いた。


大吾さんだった。
入ってくるなり、わたしを一瞥して「ああ……来ていたのか」と言う。
一週間前にも会ったけれど……すこし、やつれたな……。
その疲れた様子が痛ましく思えて、胸がきゅっと狭くなる。大吾さんは隙のない動作で歩いてきて、会長席ではなく、真島さんとはす向かいのソファにゆっくり坐った。
「どうだった」と柏木さんの問いに、大吾さんは曖昧に首を振る。仕事の話だ。新しく煎茶を用意しようとしたが、大吾さんは「茶をくれないか。いや、それでいいんだ」と冷めた茶碗を受け取った。
「……」
ちらちら、と窓ごしに鳥のさえずりが聞こえてくる。
すっかり、春だなぁ……。
まどろみながら耳を澄ましていると、大吾さんが「そういえば、」と口火を切った。
に春が来たのか?」
「はい?」
「恋、してるんだって」


………。
……!?
え……えええ!?


驚愕が発作のように胸を蝕んだ。びっくりしすぎて硬直しながら、大吾さんをまじまじと眺める。彼は煎茶を飲みほして、微かにまなじりを下げた。
助けを求めて真島さんと柏木さんを見るが、ふたりとも知らん顔をしている。むしろそれはありがたい反応ではあるのだけれど。
「さっきちらっと扉ごしに聞こえたんだが……。違うのか?」
「………」
「………」
「……ち、ちが……います」
「そうか……」
消え入りそうな声で答えるわたしに、大吾さんは目を伏せる。清水焼きの派手な茶碗が茶托に置かれる仕草は、やはり柏木さんと似ているように感じられた。
真島さんは白々しくあくびをしているし、柏木さんは急にバインダーを手に取って読みはじめる。
しかもわたしの声はとても上ずっている。
これではどう言い繕おうと嘘であると見破られぬはずがなかった。
気まずいし、好きな人に嘘をつくのが単純につらい。


「……わかった。」
と大吾さんはだしぬけに言った。
「峯じゃないか?先月会っただろう」
「……」
峯って誰だ。最近その名前を聞いた気がするけど、あの色黒のAV男優みたいな人かな……?
って、そうじゃなくて……。
「あいつ、かっこいいよなあ」
と大吾さんはくちびるの端で微笑して、目を細めた。
わたしのこと何とも思っていない目。
わたしの気持に微塵も気づかない目。
それでもいいけど、でも、やっぱり、
すこしつらい。


「違います」
と静かに答えるわたしを、大吾さんはすこし驚いたふうな眼差しで眺めた。
たぶん、急にテンションダウンしたからだと思う。自分でもぴりぴりとしてしまっている気がする。気のせいであってほしい。
「……六代目、私語は後にしろ。今回の定例会のことだが」
と柏木さんが助け船を出してくれたので、そこでこの話は打ち切られた。
わたしは彼らに新しくお茶を淹れに行くために席を立った。…動揺してはいけない。感情的になるなんて最低だ。つぎは笑って受け流せるようにしておかなければ……。


給湯室でお湯が沸くのを待っていると、人気のない通路から突然真島さんが顔を見せた。
いきなり彫りが深い隻眼の顔が現れて心臓が飛び出そうになった。

「……真島さんびっくりさせないでください。気配なさすぎでしょ」
「もう俺の茶ァはええ。このまま帰るしな」
「そうなんですか?わかりました」
「……」
「……?」
真島さんが黙っているというだけでかなりこわいのに、しかもまじまじとわたしを見つめてくる。
もう慣れたけど、知り合ったばかりなら悲鳴を上げそうだ。
真島さんは珍しく神妙に「あのなあ」と言った。
「はあ」
「六代目のことやが……」
「!……」
「あれおまえのこと惚れとるかもしれんな」


えっ……
「えっ?」
え……!
「ななななんでですか?!」
「なんでぇ言われても……勘や」
「……」
なんだ……勘かぁ。
と思いつつも、心臓が早鐘を打っている。
真島さんのインスピレーションに望みを掛けるなんて……どうかと思うけれど。でも、なんとなく真島さんが言うならそんな気が……しないでもないこともないかもしれない。
「あいつの性格で峯かなんて言うかぁ?」
「し、知りませんよ」
「よっぽど関心があるっちゅうことちゃうかと思うんやがなあ……」
真島さんはシンクのふちに手をついて暗い顔をして見せた。わざとだ。わざとそんな顔をしているのだ。本気か冗談かわからなくなる。
「たしかに、大吾さんは思慮深くて優しくて寛大で聡明な人なのであんな話題は避けそうですけど」
「密かにノロケんなやボケェ。耳がかゆぅなるわ。せやけど…俺の言いたいことわかるやろ?」
「う……で、でも……そんな……」
そんなこと、期待してしまってあとで痛い目見るのは嫌だし……。


「気張らんかい!フニャフニャしとったらうまくいくもんもいかへんで」
と真島さんは笑った。右目がらんらんしていて、ヒョウとかチーターみたいな、ネコ科の肉食獣みたいだ。猫みたいに親しみやすいときもあればいいのに。
「うまくいったら教えろや。死ぬほど肉奢ったろ」
「……ありがとうございます」
絶対言いませんけど。
でも、真島さんの優しさなんだろうなぁ……
なんてことを考えながら、彼がスーツの背広を肩に引っ掛けて、だるそうに去っていく背中を見守った。
嵐のような出来事だった。お湯がしゅんしゅんと沸いている。
いったん茶碗に注いでお湯を冷まして、お茶に適した温度になるのを待つ。
こんどは、こつんこつんと足音が通路に響いてくるのが聞こえた。



「……大吾さん」
顔を見せたのは、……大吾さんだった。
突然体にスイッチが入ったみたいに、肌がぴんと緊張するのがわかる。こういうとき、ああ、わたしはこの人に恋してるんだと改めて気がついた。
彼は給湯室の扉のところで立ち止まり、ゆっくりとわたしのそばにやって来た。
「もうすぐお持ちしますから」
「ありがとう」
「柏木さんは?」
「組の仕事で離席している。俺は息抜きに」
「ここでたばこ吸わないでくださいよ」
「ああ」


ふたりでなんとなくしんみりしたみたいに、お湯の湯気を眺めていた。
そばにいる大吾さんが、いつもよりもほんのすこし…近くに感じるのは、給湯室が手狭だからだろう。だが、大吾さんが入ってきただけで空気が変わったみたいに思えるのは気のせいではなくて、たとえばお茶っ葉の匂い、湯気の熱気、シンクそばの水の動いている気配などが、さっきよりもずっと強くなっている。
そばにいる大吾さんの存在感はもっと。
すごく意識してしまう。



と大吾さんは穏やかに低い声を洩らした。
名前を呼ばれたというより、ため息をこぼしたように聞こえた。


「さっきは悪かったな」
「え……」
「変なこと言って。茶化すつもりはなかったんだが……」
「いえ」
全然、大丈夫です、
消え入るような声でそう答えたあと、恥ずかしさがふつふつと沸いてくる。
「真島さん……か?」
「え!?」
の、その相手は」
「いいえ!そんなわけないじゃないですか……!」
「へえ」
「あ、いえ真島さんは素敵ですけど」
大吾さんは笑ってるんじゃないかと思ったけれど、案外真顔だった。
湯気の熱気を吸い込むと、ふわりと、大吾さんのスーツの香りがした。閉ざされた意志の強そうなくちびるを見上げて、視線を落とす。
(大吾さんです)
心の中でつぶやいた答えに、さりげなく気づいてほしい。
でも、その途端、顔を見れなくなりそうでこわい。


「この界隈の野郎じゃないなら、いいんだ」
「……」
「いや、真島さんなら心配ないんだが。他の極道者だと少し、気になる。変な目に遭わせたくない」
「……大丈夫ですよ。変な人じゃないです」
「そうか」
「とても思慮深い人なので」
それで優しくて寛大で聡明で、
それで、
とても鈍い人です。
とても。


……お湯がいいころまで冷めたので、わたしはそれを急須に注いだ。お茶の馥郁たる香りが、大吾さんの気配のあいだに立ち上る。作業することがあるのは幸いだ。少なくともその間は、心を落ち着かせることができる。
「人の心配ばかりしてないで、大吾さんこそどうなんですか?」
「どうって?」
こぽぽぽぽ、と茶碗にお茶を注ぐ。
大吾さんは自分のぶんを一客受け取って、一口飲んだ。
「大吾さんこそいいひといるんですか」
こぽぽぽぽ。
優しい湯気に目を細める。お茶の香りの、最後に鼻腔を通る甘みにほっとする。
こんな質問をしているときでさえ。
「ああ……」
と彼は曖昧に肯いた。すこし俯いて、言った。


「まあ……気になる相手なら」
──
「そうなんですか、……うまくいけばいいですね」
「……さっき気づいたばかりなんだがな」
と大吾さんは微かに眉根を寄せた。視線がゆっくり、わたしに向けられる。
「……へ?」


こぽぽぽぽ、とお茶を注ぎながら、わたしは見惚れていた。やさしい扇状の睫毛と、まなじりの皺が、きれいだと思った。
大吾さんは目をひそめて、わたしを見つめている。
……少しして、茶碗に視線を落とした。
「溢れてる」
「え。…、あっ!」
「おい……!やけどするな」
「あつ……。」
「しっかりしろ」


茶托に溢れたお茶が指先を濡らして咄嗟に手をひっこめた。
お湯も幾分冷ましたあとだったので、やけどになるほど熱かったわけではない。
大吾さんは蛇口をひねってシンクに豪快に水を放ち、わたしの手をぐいっと掴んだ。
「!……」
掴んだ手の指を、冷やしてくれている。指先に、まだ春の始めの気温に冷やされた水道水が掛かっている。じんじんするほど冷たい。
「……」
「……」
「しばらくこうしていろ」
「はい」
……。


体温がじわ、と上がっているのに。
掴まれた手のひらと頬は熱いのに、指先だけ冷えていって変な感じがする。
「あの……ありがとうございます」
手を掴まれている、それだけのことなのに、体の中枢を握られてしまったみたいに、大吾さんでいっぱいになってしまう。
嬉しいのだけど、でも、混乱する。
おずおずとお礼を言って手を引っ込めようとすると、びくともしなかった。
じゃーっ、と水が流れつづけている。
大吾さんの手……あったかいな。ごつごつしてるけど、傷やささくれがなくてきれい。
安心するような手の温度。だけど、あったかいのにゾクゾクしている。
ドキドキする波が引いていくのを待っていると、水道の音の向こうで、大吾さんが小さく息を吸う音が聞こえた。


「さっき言ってただろ」
「……なにをですか?」
「おまえだよ」
「え?」


……それきり大吾さんは黙りこんだ。
硬く閉ざしたくちびるの横顔が、真面目な顔をして指を見つめている。
……?
何のことを言っているのかよくわからず、やり過ごそうかと考えていたとき。
不意に大吾さんの言葉を思い出した。
“まあ……気になる相手なら”


「……」
「……」

“なんでぇ言われても……勘や”
真島さんの声が脳裏をよぎる。
“おまえのこと惚れとるかもしれんな”


「あの、大吾さん……、」
背けられていた顔が、ゆっくり、こちらに向けられる。
茶色っぽい瞳と目があったとき、視線が、ドクン、と胸に噴き立った。




──“おまえだよ”
……熱い、
……このまま、沸騰してしまいそう。