堂島さんに気持を伝えられた夜。後部座席のシートに坐って、彼はフロントガラスを、わたしはドアの窓を、それぞれ顔を背けあうようにして眺めていた。だが彼は重ねたわたしの手を放さなかった。胸が詰まって、言葉がなにも出なかった。家まで送ってもらって、帰宅して、ベッドにうつ伏せに倒れこんで……“さん”とくちびるを小さく動かした、彼の表情を思い出す。 “好きです”密やかな低い声。意志的な強い瞳。堂島さんはほとんどポーカーフェイスだけど、そのぶん瞳に表情が出やすいと思う。それともわたしがよく彼を観察しているからわかってしまうのだろうか。はたから見れば怪訝そうな表情が、彼の気持にぎゅっと重力を感じさせた。 “俺──さんが好きです” 「………!!」 かあ、とひとりでに赤面してしまう。 シーツをもみくちゃにして、脚をバタバタさせて、そうしてしまうくらい恥ずかしいのに、堂島さんのことばかりが脳裏に駆け巡る。 好きかきらいか、と言われたら好きだし、とても尊敬している。でも、こんなに、掻き乱されるなんて……。 好きと言われたから好きになったのかな。もともと好きだったのかもしれないけど、でも、自分の気持は浮ついて薄っぺらく感じる──堂島さんの言葉の重みと、真面目な眼差しに比べてみれば。 (……あれ?) わたし、返事してないかも。 ふたりきりの会長室。 好きですって言われて──わたしは恥ずかしいのと驚きと嬉しいのとで、感情処理が追いつかず、呆然としていた、と思う。 堂島さんとわたしは向かい合って立っていた。とても近い距離だった。仕事の話をする距離ではなく、恋愛の話をする距離だった。照明のペンダントが、見上げた彼の肩越しにキラキラ光っていて、眩しかった。彼の影がわたしの体に掛かっていた。影があたたかく感じたのは、堂島さんの体温がわたしにも伝わっていたからなのかもしれない。向かい合った顔の間に、ため息と、感情と、緊張が、閉じ込められているようだった。まばたきをするだけで、すべてが崩れてしまいそうだった。思い出すだけで心臓がひく、となる。 (わたしもです、同じ気持です) そう伝えた……と思ったけれど、声に出して言っていなかったのではないか。 ……。 堂島さん、どう思っているだろう。 わたしの好意が伝わっていなかったら、……彼の真面目な心を傷つけてしまったのではないだろうか。いやいや、帰りの車の中では手を握られていたし……でもわたしは放心していて握りかえせていなかったかも。だが彼も大人だし、いくらなんでもそんなことで傷つきはしまい。 ……。 いずれにせよ、改めて伝えたほうがいい。堂島さんは心を見せてくれたのだから。わたしだけが受け身でいるの不誠実だ。なるべく早く。でも会う約束なんてしてない……。 うまく考えることができず、呆然としていると、携帯のバイブがガタガタと激しく鳴り響いた。バッグの中で、硬いものとぶつかっているらしい。取り上げて画面を見たとき、──『堂島大吾 メール受信』という文字に落っことしそうになった。 『先程は遅くまで有難う御座いました また連絡します 堂島』 まるで、堂島さんが目の前にいて、口に出してそう言ったみたいなメールだ。彼がこう言っている姿が目に浮かぶ。 何回も何回も液晶の無機質な文字を繰り返し読んで、ため息をついた。 一度に色んなことが起きすぎた。ゆうべの今頃は動画を観ながら呑気に爪の手入れなんてしていたのに。まるきり生活が一変したような気分だった。わたしがゆうべの自分に戻ることはできないのだ。 とにかく返事をしなければならない。すぐに返信画面を呼び出して、……お礼の言葉を返して、絵文字……絵文字はどうしよう。いままで業務連絡しかしたことなかったし、堂島さん相手に使ったことがない。ないのも寂しいし……まあいいか。我ながら当たり障りないメールだなあと思いながら、返信、っと……。 とりあえず顔洗って歯磨こうかな。 いつのまにかわたしはまたベッドに倒れこんでいた。メールを送ってから、さして時間は経っていない。手を顔に当てて、くちびるを噛んだ。 何度も思い出す。会長室の革張りのソファ。窓ガラス越しの濃紺の庭園。顔を上げたときに、あれ、と思った。なんだか様子が違うって。 仕事の話をしていたのに、いつのまにか距離が近くて、告白されて、それで…… ── キスされた。 妄想じゃない。まだくちびるに、その感触と、温度が残っている。 「わあああああ……」 枕に顔を押し付けてバタバタして、疲れてまたぐったりと放心する。 顔が近づいてきたときに、わたしは一度顔をすこし背けた。そのまま受け入れたら、心臓が持たない気がしたからだ。堂島さんの鼻筋が、わたしの鼻筋に重なったとき、──だめ、──逃げられない、と脚が震えた。 (あんなに、やわらかいんだ……) 優しくて……しっとりしていて、あたたかくて、慈しむようで、……。 胸が苦しくなる。すこしだけ髭がちくちくしたけど、それ以外、すべて包みこむように、愛しい感触だった。抱き寄せる腕、顎を持ち上げる手、顔と体の体温、全部、大切にしてくれているとわかるような、とけてしまいそうな、気持いいものだった。 なのに、気持よすぎて、胸が苦しかった。 切ないような、泣きたくなるような、逃げ出したくなるような……。 一生に一度だけなのではないか……そう予感させる、特別な瞬間に思われて。 堂島さんは、そうっとくちびるを離して、わたしの顔を眺めた。 呆然としているわたしに、彼が苦笑いしたのを覚えている。うつむいて、彼は立ち上がった。 “……そろそろ門が閉まります。帰りましょう” 思い返してみれば、わたし、ほんとうに全部受け身だった。 なんにも反応していない。人形みたいにじっとしているだけだった。 とんでもなく失礼なことをしていると認識した途端、血の気が引いていく。 どうしよう。くちびるを噛みながら、はやくなんとか伝えなくちゃ…と気が急いた。でもメールはちょっと……電話もしづらいし……でも──なにもしないよりは。 『続けてすみません。まだ起きてますか?』 と送信して、目を閉じる。まだ起きているというメールが返ってきたら、電話してしまおう。それでまた会う約束をして、それで…… だが、突如として鳴ったのは、メールではなく着信の合図だった。 液晶画面には、堂島大吾、の文字。 通話ボタンを押して、そっと耳に当てる。しん、という無音の音が、聞こえた。 『さん、俺です。堂島です。いま、大丈夫でしたか』 「はい、わたしは大丈夫です。いま、ご自宅ですか?」 『ええ。いま着いたところです』 「きょうは送ってもらって……ありがとうございました」 『いえ。好きでやったことですから』 電話で聞くと、堂島さんの声はいつもより幼い。 携帯同士の相性がとてもいいのか、環境の音が鮮明に聞こえてくる。 電話の向こう、堂島さんがフローリングの床を歩いている気配がする。 やがて立ち止まって、ソファか、ベッドか、やわらかいところに腰を下ろしたようだった。しゅる、と絹の音がしたのは、彼がネクタイを解いたからだろう。 彼の姿を想像して、胸が熱くなる。 だけど表情は思い描けない。彼の感情が、電話ではまったく伝わらない。 「…電話してもらって。ありがとうございます」 『──こちらこそ。声、聴きたかったので』 くす、と掠れて、笑った息遣いがした。 彼独特の、硬い笑みを思い浮かべる。さっき、ベッドで彼の言葉や、体温や、くちびるを反芻して、赤くなっていた気持がよみがえった。 「あの……わたし、ちゃんと自分の気持をお伝えしてなかったんじゃないかと思って……」 『え?』 「その、さっきの……」 『……』 堂島さんが、小さく、こほ、と咳払いをする。 どっくん、どっくん、どっくんと、心臓がうるさい。まさか堂島さんに聞こえているはずがないだろうけど、たぶんわたしの緊張は彼にも届いているだろうと思った。 「あの……堂島さんのこと、わたしも、好き…です、」 口に出して伝えると、いままでずっと長いこと、秘めていたような気がした。解放しただけで、とてもとても、抱えきれないものを抱えていたのだなあと思う。とても好きなことを自覚した。 だからこんなに、苦しかったのだ。 『うん……ありがとう』 すう、と息を吸う音。落ち着いた、なめらかな声。 堂島さんがどんな顔をしているのかが気になる。 だけどたぶん、優しい目をしているだろう。そんな気がする。 「言うの忘れてて、すみません。わかってくれてるとは思ったんですけど」 『ええ、まあ……そうじゃなかったら、引っぱたかれてるはずだと思ったので。好いてくれてるだろうとは期待していましたが』 「緊張して、言いそびれてしまって……帰ってから気づいたんです。言ってないって」 『気にしてくれたんですね。だが思いがけず、とても嬉しかったです』 ふ、と。 堂島さんの笑った呼吸音が、はっきりと聞こえた。 彼の笑みも、脳裏に過る。あの、控えめな笑顔。 『さん、まだ時間いいですか』 「あ……はい。堂島さんは?」 『ええ。俺もまだ起きています』 「そうなんですか。じゃあ……世間話でも」 『ええ。是非。 ああ、そうだ、先日──』 まだ、あと、もうすこしだけ。 このまま、堂島さんと繋がっていたい。 今夜はきっと、眠れない。 |