大寒の夜。だあれもいない静かな道。 寒いとぼやくことで暖を取る。大吾さんとふたり、ぶらぶら歩きながら。 「大吾さん寒くない?」 「いや、寒いには寒いが…」 「うそ。平気そう」 「は、寒がりなんだな」 「そうなの。ほんと寒いのだめ」 大吾さんは仕立てのよいスーツとコートを着て、首から巻かずにマフラーを提げている。 まるでマフィアのドンみたいな恰好だ。重厚な生地を身につけているとはいえ、まったく寒そうには見えない。落ち着いた物腰と、強風も物ともしない淀みない歩幅が、すこしうらやましい。 「すまん」 「なにが?」 「よりによって、こんな風のある晩に呼び出して」 「え、いいよ。暇してたし」 「……」 いいのに…… 大吾さんに会えるなら、寒いのもまた嬉しいのに。 難しい顔で彼が黙った瞬間、気まずい空気が流れだした。 「……大吾さん。大吾さんのポケットに手突っ込んでいい?」 「──!? 」 「寒いので。ちょっとだけ」 「バカ言え…、やめろ」 「……はい」 いまの結構勇気出したんだけどな……冷たい返事にますます肌寒くなる。 ストレートに好きだと言ったら、どんな顔をするのだろう。 それを見たらわたし、凍え死んでしまうかな。 だが遠回しに想いを口にしても、いつもきれいに交わされてしまう。 スマートな大人な対応。鈍いのか、逆に鋭くて素知らぬふりをしているのか。 ジャケットの詰襟の中に顎をうずめて、こっそりため息をつく。 ため息は顔に跳ね返り、冷たくなって襟から出て行った。 「ね、真島さんこんな日でもあの恰好なのかな。最近会った?」 「しばらく顔を見ていない。はよく会ってるだろ」 「わたし?真島さんと?ううん、全然。連絡しても、すぐ切られちゃうし」 「そうか」と大吾さんは声をひそめた。「あの人は忙しい人だから」 「そうだね」 「あまり、気落ちするなよ」 「え?うん。しないよ。気まぐれな人って知ってるし」 「そうか。──そうだよな」 わたしと大吾さんは、真島さんを通して知り合ったので、たまにあの人の話をする。言葉を失くしたとき、なんとなく間があいたとき、そんなときに。 ふしぎと大吾さんは、真島さんの話になると、慎重に言葉を選んでいるように見えた。 「真島さんあんな調子じゃ彼女できないだろうな」 「……じゃないのか」 「えっ?」 「じゃ、ないのか?」 「わ、わたし?ううん!とんでもない!」 思いきりかぶりを振って否定する。 まさかそんなことを思われていたなんて……! 真島さんがこの場にいれば、彼のほうが激しく嫌がっていそうだ。 「え……。そう、なのか?」 「うん!全然、全っ然そんなことないよ!」 「……そうだったのか、──俺はてっきり」 「やめてよ~命がいくつあっても足りないよ」 「………」 アハハと大きく笑って、笑いながらそれが、空元気であることを自覚した。 大吾さんにとってわたしは、真島さんの知り合い、程度の存在なのだろう。真島さんの付属品だから、こうして気にかけてくれるのだ。薄々わかっていたけれど……がっくりきて体がしゅんと冷え込んでしまう。 「大吾さん、」 「……ん」 「寒いねほんと」 「……」 ふう、と大吾さんのくちびるから、白い吐息がこぼれる。 視線を追うと、彼の額のあたりまで上って消えた。更に見上げると、真っ黒な夜空と、白い小さな星のまたたきが見える。 しんと静かで、遠くて、きれい。 すぐそばに大吾さんがいる。なんだか、すこし不機嫌そうだけど。 自分の霞む息に目を細めながら、……彼がとなりを歩いているこのことを、幸福に感じようと思った。凍えそうな夜道を、ふたりきりで歩いている。大吾さんの革靴の乾いた足音が聞こえるし、口を閉ざした彼の、頑固そうな横顔が見える。声を掛ければ、振り向いてくれる。ポケットに手は入れさせてくれなかったけど。……彼の存在感を胸と記憶に閉じ込める。 これから先、この道をひとりで歩くとき、大吾さんの気配を思い出せるように。 「これ、……羽織っておけ」 たぶん、わたしがくしゃみをしたからだろう。 立ち止まり、大吾さんは、提げていたマフラーをわたしに寄越した。 「え、大吾さんは」 「俺は大丈夫だ。気にするな」 「……いいの?」 「ああ」 「ありがとう……」 「ほんとうに寒がりだな。鼻の頭まで、真っ赤にして……」 ふ、と笑った大吾さんの顔。きゅうと胸が締めつけられた。 彼は目を細めて笑うと、すこしだけ、たれ目がちに見える。 柔らかそうな目尻と涙袋が、嬉しい記憶となって、脳裏に刻み込まれた。 「これ、すごい。軽いしあったかい」 「そうか?」 「うん。肌触りも気持いい。さすが大吾さん」 「そいつはよかった。もうすこし、それで我慢してもらおう」 「うん。……へ、へっくし」 「おい──大丈夫か」 「うん、大丈夫」 「風邪引かせちまったかな…」 「大丈夫だってば」 「……」 すん、と鼻を小さくすするわたしを、大吾さんは探るように見つめてくる。 ほんとうに風邪を引いたのではないことを知ってもらいたくて、にこっと笑ってみる。 だが大吾さんは愁眉を寄せたままだ。思わしげにわたしを眺めている。 「…………」 「……」 「……大吾さん」 「?」 「ポケットに、手、入れてもいい?」 「………」 すんすん。 あれ……鼻水とまらない。 「……寒いんだもの」 「……」 大吾さんはむっと黙りながらわたしを見て、案じるように眉尻を下げる。 やがて諦めるように、息をついた。 「──わかった。──入れていい」 「えっ!……いいの?」 「そんなに、あたたかいもんじゃないと思うけどな…」 「うん、でも……」 「なんだよ?」 「冗談で言ったから、まさかいいなんて」 「……。」 余計なことを言ってしまった。せっかくのチャンスなのに。大吾さんがなにか反応する前に、わたしは右手をさっと彼のコートのポケットに突っ込んだ。 裏地のシルクが手にまとわりついてくる。ポケットの中はすこしだけ、大吾さんの体温がこもっているような気がした。それに、わたしの右腕が、大吾さんの硬い胴体にぴったりくっついている。どうしよう、暖を取るよりも下心が勝ちすぎて、痴漢してる気分。 でも、あったかい……。 「これいいね。あたたかいよ」 そう言うと、頭上で大吾さんがなにか言いかける気配がした。だが、彼はなにも言わない。 言葉の代わりに、彼もポケットに手を入れる。 そうしてわたしの手をぎゅっと握りしめた。 「!!……」 「……」 「……」 ──うそ、夢? びっくりしすぎて、びくっと体がすくんだ衝撃が、たぶん彼にもばれている。 まさか、そんな。体中に電気が走ったような驚きの余波が、まだびりびりと全身に残っている。 あの大吾さんが……いつもつれない、一線を置く、大吾さんが……。 認識すると、強張った体がふにゃふにゃに力を失くしてしまいそうだった。 なんで急に……。 とまどうわたしの意志に反して、大吾さんの手は、ぎゅっと力強い。 指が冷たくて、手のひらがあたたかくて、乾いていて……硬くて、……わたしの手を一握りするだけで全部包んでしまうくらい、大きくて。 恥ずかしくて下を向いていたが、大吾さんがどんな顔をしているのか気になって、そうっと横を見る。 大吾さんは、すこし顎を引いてうつむきがちだ。 わたしの視線に気づいて、長い睫毛をしばたかせたあと、気まずそうにわたしを見た。 いたたまれなさそうな、怒っているような、どちらともつかない顔。 なんだかふたりで悪いことをしているみたい。 心臓がドキドキすることを忘れていたみたいに、間を置いたいまになって、激しく鼓動が鳴りだした。 手に汗までかいてしまう。 恥ずかしいけど、もうすこしだけ……。 「……こうしていたらまるで、バカップルみたいだね」 「……、」 「あ、えっと、調子のってごめん……」 「いや、そうかもな」 気だるげで、ゆっくりの、若い声。 白い吐息ごしに見上げる彼の横顔に、わたしは見とれた。 「大吾さん、きょう優しい」 「俺のせいで、寒い思いをさせてるからな」 「手まであっためてくれるなんて、お母さんみたい」 「………お母さん、か」 「大吾さん、いい人すぎて苦労してそう」 「──鈍いよな、」 「え?なに?なにが?」 「いい。着いたら話す」 ビュウと鋭い風が吹いて、体を硬くする。 髪が乱れ、よろけても、ぎゅっと手を握る力が守ってくれる。 ……あったかい。ぬくもりが、胸の鼓動に共鳴している。大吾さんに恋して、しみじみと幸せだと思った。 凍てついた道を、ふたりで歩きつづける。目的地までもうちょっとだけ。 どうか、もうすこしだけ、寒いままで。この唯一のぬくもりが、まだ続きますように……そう、白い吐息に密かな祈りを込めて。 |