マホガニーの会長席で、休憩もとらず延々と仕事をしている彼。
宴会の座敷で、上座に坐って、ごつい部下から酌を受けている彼。
大浴場から戻る廊下で出会った、浴衣をまとった彼。
どれも堂島会長自身は同じなのに、どれもまた別の彼のようだと思った。表情やしぐさや、言葉少なな態度は同じでも、その身にまとう雰囲気が少しずつ違う。それは、彼自身の変化というより、受け取り手であるわたしの視感の変化であろう。


創業百五十年という古い旅館の廊下は狭く、歩くときしきしと軽く弾んだ音を立てる。調度品や絨毯や建物の素晴らしさから、古さよりも格式を思わせる音に感じる。
硝子戸と硝子戸に挟まれながら、温泉の女湯から自室に向かって歩いていると、向こうから堂島会長がひとり、歩いてくるのが見えた。
わたしがお辞儀すると、堂島会長も目を伏せて軽く会釈する。
彼は、わたしが通りやすいよう、浴衣を身に着けた体を硝子戸に寄せてくれた。そうしなければ体と体がぶつかってしまう。
急いで通りすぎようとしたとき、堂島会長から、お風呂上がりの湿度を感じた。

「はい」
呼び止められるとは思わなかったので、驚いて振り返る。
久しぶりにその声を聞いた気がした。
堂々たる威厳を思わせる姿をしているけれど、声は若くて、なめらかで。いつもどきりとさせられる。
「きょうはガイド役、ご苦労だったな」
「いえ。けっこう楽しかったです、旅のしおりとか作るのも」
「俺も一部もらったよ。よく、できていた」
堂島会長は浅く笑んだ。やわらかそうな髪がオールバックの形を保っているけれど、整髪料の類はいまはつけられていなさそうだ。それなのに、彼はいつもと同じくキチンとしているように見えた。浴衣がとても似合っているからだろう。
「会計帳簿と同じくらい真剣に作りましたから」
「そうか」
笑いながら言うわたしに、彼は目を細めた。
ときどき見せるその顔が、わたしは苦手。落ち着かなく、なるから。
「……堂島会長、もう休まれるんですか?」
「いま、部屋でひとりで飲んでる。」
「いいですね。わたしもビールでも開けちゃおうかな」
「なんなら一緒にどうだ。女将から、地ビールをもらったんだ」
「え、」
え、と呟いてから、声に出さずにもう一度、え、と呟く。
堂島会長はごく普通にしている。まるで、東城会本部の、あの臙脂色の絨毯とブランデー色の腰板の部屋で、仕事の要件を伝えているような、そんな空気が流れている。
もしその空気が乱れているとすれば、わたしが動揺しているからであって、しかもそのことを、堂島会長はまだ気づきもしていない。
「そうなんですか。」
「ああ」
もちろん。彼が、なにかするわけはない。
真面目な人だし、彼女もいそうだし。わたしのことなんか、たぶん男の部下と同じくらいにしか思ってないだろうし。わたし、すっぴんだし。色気なんかないし。
彼は本当に、わたしが受けようが断ろうが、どっちでもよさそうな顔してるし。


「じゃあお邪魔します」
半ば強がって、そう答える。
堂島会長は、普通に受け流すだろう。
そう思ったのに、
「あ……ああ」
と彼はわずかに声を上ずらせた。
あれ?




*




堂島会長の部屋はわたしの部屋の三倍はあろうかというほど広くて、畳の匂いがした。数寄屋造りの風雅な部屋だけども、一枚板の大きな座卓があり、そこにある吸い殻と書き損じた紙屑に、まだ若い男性像を見た気がした。
漆塗りのビールクーラーに、氷と瓶が刺さっている。わたしは堂島会長のグラスにそれを注ぎ、彼も二度ほどわたしに「そう遠慮するな」と注いでくれたが、それ以降は手酌で好きに飲むことになっていた。
「おいしいビールですね」
「やっぱり、普通のとは少し違うよな」
と他愛のないことを話した。仕事の話も少ししたが、互いにそれは気乗りしなくて、口数は少なくなった。
だが、わたしと堂島会長の関連性と言えば、仕事のことだけだ。他になにを話すべきなのか、わからない。自然と会話も少なくなって、わたしは息苦しさを感じてしまう。
けれど、横目でちらと伺った堂島会長は、穏やかな表情をしていた。
(この人はわたしとは違うんだ)
わたしが所在無く、気まずさを感じているときに、彼は沈黙の心地よさを楽しんでいる。見た目や姿勢に酔ったところは一切なく、だが精神面だけでゆったりくつろいでいる。
わたしとは違って、とても余裕がある大人なんだな、と思った。
なんだか自分がとても狭量みたいで恥ずかしいが、彼の態度はいくらかほっとさせてくれる。気兼ねする必要はない、わたしもマイペースで楽しめばよいのだ。
(それに堂島会長はやっぱり下心なんてなさそうだ。当たり前だけど)


……でも、それでも。


そこを少しだけ寂しく思ってしまうのは、やはりいやらしいことだろうか。彼もわたしも大人であるから、何もないと分かり切っているところに期待してしまうのはいけないことなのかもしれないけれど。
それでもやっぱり、少しだけ。この時間が楽しいものだったから尚更「ああ、意識されていないんだな」と当たり前のことを思わされて、そしてそのたびに現実に引き戻された。
彼からの思わぬお誘い。思い切って頷いてみたけれど。二人きり。夜で、しかもお酒を飲んでいて──普通なら、何か起こってもおかしくはないし、あまつさえわたしは心の奥底で、ほんのちょっぴり、それを望んでしまっている。
彼は平気な顔で飲んでいて、穏やかな雰囲気を身にまとっていて、ほんとうに、普通にお酒を飲んでいるだけだ。このまま、「お疲れ様」とにこやかに別れて、わらって気持ちよく眠ってしまっても、何もおかしくはないくらいに。
(もし……もし今思いを伝えたら、どんな顔をするだろう?)
そんな思いが頭をめぐって、一人、そう思っていたとき。


……、おまえ。いま付き合っているやつは居るのか」
空気を切るようにして呟かれた、独り言のような台詞の、穏やかななかに、はっきりとした熱。
彼はまだ少しだけビールの入った水滴のしたたるグラスを、口元に運びながら傾けて、なんてことのないような顔をしている。
一方わたしは、突然の投げかけに目を丸くするばかりで、あ、とか、う、とか言葉にならない文字の羅列しか頭に思い浮かばなくて、はからずとも間を空けてしまう。
焦れば焦るほど、先の堂島会長の声が、耳にやけにこびりついて離れないからたまらない。
「え……」
「あ、いや……」
「…………」
「…………」
「えと……あの、……いません。いまは……」
「、そうか…………」
必死になって絞り出したわたしの答えに、どうやら彼は満足したようだった。
頬骨を押し上げるようにして柔く微笑んで、携えていたグラスをカタリ、と座卓に置くと、その手で頬づえをつきながら、わたしを見やる。
息を吸って、引きしまった唇が僅かに開かれる。
思わず、その視線に姿勢を正してしまう。
くしゅくしゅと浴衣のすそが擦れて、綿独特の乾いた音を立てるのを背後に感じていると、わたしに倣うように、堂島会長も、ついていた肘を上げて、こちらに向き直った。
どこに付けられているのか分からない、時計の秒針の刻まれる音。
わたしたちはただ向き合って、沈黙を共有していた。
どうしてそんなことを聞くのだろう──とか。
そういうことを考える暇もないくらいの、短い時間だった。
ふっくらとした厚みのある唇が、一度引き上げられて、ほんのわずかな隙間から歯列を覗かせたかと思えば。


「すきだ」
カラン、と、結露に連れられた氷が、グラスの中で回る音がする。


つま先から、頭の先までを電流が走ったような気分。
堂島会長はわたしをじいっと見つめて、時折目を細める。
「……好きだ。」
二度目の告白は、語気の強いものだった。
いつもの、部下に命令を下すような口調でありながら、どこかわたしを窺い建てるような声色に、反射的に背筋が緩んで弛む。
真剣なまなざしは崩されぬまま、ほう、と小さく息を吐くようにして、佇みながら堂島会長は私の返事を待っている。
気が付いていないのだろうか。
わたしがこんなにも、いまこの時でさえ集中できないくらい、呼吸をするみたいに、あなたのことを思っていたということを。


「…………わたしも、」
「…………
「わたしも、すきです。……大吾さん」
初めて、はっきりと彼の名前を呼んだ。
告白の気恥かしさをごまかしたつもりが、それはもっと大きな熱となって私の体の中を毟りまわり、おもわず、喉がごくりと上下する。
「…………」
「…………」
再び訪れた短い沈黙も、さきとは比べ物にならないほどの幸福で迎えられる。共有するという意味を噛みしめるみたいに微笑んでいると、彼がまいったように笑って、乾ききっていない前髪をさらりと掻きあげた。
「……すまない……年甲斐にもなく、馬鹿みたいに嬉しくて。いまは、気の利いた言葉は返せそうにない」
「……いえ、いいんです。仰ってもらえただけで、わたしも……。同じ気持ちですから」
酔いが回ってしまう前に、彼とこうして心を通わせることが出来てよかったと、心の底から、一人思っていると、
「そうか。でも、俺は…………多分、お前とは少し違う」
意味深な言葉を添えて、彼の視線がわたしの横へと流れていく。
それを何気なく追うようにして辿れば、そこには、仰々しい中央開きの襖──
(も、もしかして……)
「……我慢も、出来そうにないんだが……」
「……!」
恐らく、その先に広がっているであろう光景を想像して、息をひそめたわたしを、眉尻を下げて彼が見守る。その微笑みが、まるで大切なものを見るかのように酷く優しくて、わたしの身体は自分のものじゃないみたいに大胆になってしまう。
──怖くないと言ったら、嘘になる。
だって、さっきまで下心なんて微塵も感じさせないような顔でお酒を飲んでいて、こんな気持ちになっているのはわたしだけだと思っていたから。何もないのだと思い込んでいたから。嬉しいことには、間違いないのに。
でも、その怖さとか、恥ずかしさとか、嬉しさとか、焦燥とか。色々あふれそうになる気持ちをぐっと堪えて、まっすぐ彼の瞳を見て、わたしは小さくうなずいた。
「…………えと……わたし……大吾さんとなら……」
「…………ああ。……その……」
「……はい。」
「……優しく、する。……」
「はい」
優しくする──その台詞が、なんとも彼らしくって。
ゆるりと立ち上がりわたしへ手を差し出された彼のその大きな手のひらを、なんの躊躇いもなくわたしは掴んだ。




*




暗がりの、ほんのり光る行燈の灯された、先の部屋より一回りほど小さな部屋に、布団が一組。
元々、この部屋の主は彼だけであったのだから当たり前なのだけれど、こうして二人でそこに踏み込んだ今、言いようのない気恥かしさが私を襲った。それは彼も同じだったらしい。「なんだか妙に照れるな……」とわらって、一足先に布団へ座ると、遠慮がちに手招きするさまが少しだけおかしかった。
ふっくらとした布団に膝をついて、彼の前へ座れば、堂島会長はおもむろに瞳を細めてわたしの肩に手を置いた。
「……すきだ」
囁くように呟かれたそれに、
──ああ、始まるんだ。
と思って、「はい」と、同じように頷いて笑えば、肩にあった手が顎に添えられて、刹那、熱を帯びたくちびるが降ってくる。
ついばむような優しいキスに、時折、瞼を開けて彼の顔を覗けば、濃いまつ毛を涙袋に添えて、眉根を寄せながら、この時間を慈しむような顔をしていたから、恥ずかしくなってすぐ閉じた。彼の唇から移る水分で、徐々に潤む自身の唇に、体中が馬鹿みたいに熱くなっていくのが分かる。
キスだけで、随分と頭がぼうっとして、背中から腰にかけて、中からじくじくとむず痒さを増す。
思わず足を震わせてしまうと、彼はそれを、わたしが膝をついているからだろうと思ったらしい。ゆっくりとキスに濡れた唇を離すと、掛け布団と枕を少しばかり横に退かして、瞳を細めたまま、わたしの体をゆっくりと布団へと倒した。大きな体に跨がれて、かさり、と、布と布とがぶつかる音がする。


天井と彼とを見上げるわたしに、また彼の唇が降ってくる。今度は、舌を絡める深いそれに、あっというまに蹂躙された咥内に息も絶え絶えになって、必死になって彼の浴衣の袖をつかんだ。ときどき、抑えきれない勢いに、歯がぶつかって、かち……と小さな音を立てる以外は、さきほど聞こえていたはずの時計の秒針の音すら聞こえず、まるでこの世界にたった二人で生きているかのような感覚に陥った。
(すきです……)
心のなかで、ひっそりと呟けば、ちゅ、と短いリップ音を弾ませて、もう二度と離れないんじゃないだろうかと思うくらいに長い間繋がっていた二人の唇があっさりと離される。
キスの最中、知らぬうちに閉じてしまっていた瞳を開けて、また、天井と彼とを視界に収めると、声にならない声が口のなかを彷徨った。
──情欲に塗れた瞳だった。
普段の威厳や、優しさや、彼らしさの類は奥にひそめて、ただ、この時間を楽しむような顔をする堂島会長にまたどくり……と胸が唸る。
やがて、彼の手が、わたしの浴衣へと向かう。
固く結ばれた帯をするりと簡単にほどいて、重ね合わせられた身頃を片方ずつ、めくるようにして剥がしていく。襟から漏れた彼の熱い指先が、浴衣の下の皮膚に微かに触れて、わたしはふるりと肩をびくつかせた。
……何も纏わないわたしの体が、外気と、彼の瞳の元に晒される。
「……綺麗だ」
「……そんな、」
「ほんとうに、綺麗だ……」
ため息と一緒に漏れた呟きは、わたしの耳を通って、どこかへ行ってしまうまえに、堂島会長の手のひらによって別の場所へと移される。頬、肩、胸──控え目な手つきで私の体へと添えられた指が、上から下へ、輪郭から鎖骨を通って、胸のふくらみを撫で、へそまで落ちていく。そうして、親指でその周りを抑え込むようにして押しつぶすと、にこりと微笑んで、彼は指で触れたところを追うようにして唇を這わした。
時折、唇からはみ出される濡れた舌が、汗で湿っているであろうわたしの身体に触れるたびに、きゅ、と皮膚が引っ張られる感覚。
シーツを掴んでそれに耐えていると、曖昧にふとももを抑えていた空いた手が、徐々に上にのぼり、胸のふくらみをその内に収めた。優しくて、もどかしい手つきに、小さな喘ぎが漏れてしまうのを、彼が薄目で見ている。
きっとわたしはいま、はしたない顔をしているだろう。
それでも彼があまりにも愛おしそうな顔をするから、安心して身を任せていられた。その言葉に出来ない気持ちを伝えたくて、にこりと微笑み返せば、薄目だった彼の黒い瞳がわずかに驚きを滲ませながら開かれて、間もなくして、胸に宛がわれていた手が下へと降りる。
もじもじと震えていた熱の出所に、骨ばった彼の無骨な指が添えられる。同時に、あばらの辺りにあった彼の顔がまた、目の前まで近づいてくる。
キスの音にまぎれて、聞かれたくない音が混じる。
けれども、もうすでに隠せないくらいに腰が浮いてしまって、恥ずかしがっているのも、きっと彼にはお見通しなのだろうと思った。
好きで好きで愛おしくてたまらないというどうしようもない気持ちも、一緒に見透かされてしまえばいいのに、そう思ったことさえも。


与えられる快楽に浮かされるように呼吸を乱していれば、徐に、その熱を追っていた手のひらが離される。まどろみに浸る頭の中で彼を見れば、わたしにしたように、自身の浴衣の帯をほどいて、ゆっくりと浴衣を脱いでいた。
丁寧に脱ぎ取られたそれが、さきに脱ぎ捨てられたわたしのものと重ねて畳へと置かれる。
何も纏わない状態で、少しだけ横を向いた彼の、背中に広がる大きな刺青が、わたしを睨んでいる。背中にある鋭い視線と、間もなくして戻ってきた、わたしを優しく見つめる静かな瞳。
そのどちらも彼であるというのに、与える印象は真逆のように思えた。
「……こわいか」
「いえ……」
「…………そうか」
低く、掠れた彼の声が、この逢瀬に流れるゆったりとした時間を感じさせた。
彼の背中は、そこだけ切り取れたように、殺伐としている気さえした。けれども彼らしく、酷く美しいなとも思ってしまった。
引きしまった胸板や、広々とした肩幅が、彼が男だということを感じさせる。着やせするのか、普段からは想像も出来ないくらい立派な筋肉が、惜しげもなく私の眼下に晒されると、一人占めしているのだ──そんな卑しい気持ちが芽生えるほどに。


短い会話の後、慣れた手つきで避妊具を付け終えた彼に、ひざ裏を持ち上げられ、はっきりとした熱が、わたしの中枢に触れる。控え目な接触とは裏腹に、上半身は重ね合わせられるみたいに覆われて、彼に比べて随分と小さいわたしの体にはすっかり影が差してしまっている。
彼の吐息を近くに感じていたからか、いくらか心に余裕が生まれていたものの、その先端から感じる威圧だけでも相当なもので、きゅうと苦しくなる心臓を置き去りにして、おもわず窺い見るように視線を下げてしまう。
そうして、暗がりの先の、大きく膨らんだ情欲を直視してしまい……反射的に下半身が切り取られたみたいに硬直してしまうのを、どうすることも出来ずにいれば、わたしの体沿いに置かれていた彼の右手が、太ももの付け根から、ひざ裏を通って、ふくらはぎまで、穏やかな線を描く。
「そう、緊張するな……」
優しい、優しい声だった。
その言葉に、小さくうなずいて、「はい」と、口元だけで言葉を返した。
深呼吸のような温かな吐息が私の頬を掠めた刹那、外気を押しだすようにめり込んできた熱に、思わず身をよじれば、先ほど緊張を解してくれた彼の右手が、腰に添えられ、ぐっと二人の距離を無いものへと変えてしまう。
「あっ……」
ずぶずぶと確かめるようにして進むその熱に、甘えるような声を出してしまう。凹凸のある先端から、中心へ。大きさから、襲ってくるであろうと思っていた痛みは、少しもなくて。ただ愛しいという思いだけがこみ上げる。
それほどに、いまは。ゆっくりと、時間をかけて侵入してくる彼の強い思いが、涙が出るほど恋しかった。


入り切ってしまえば、彼の熱は、一瞬の間をおいて、ずんずんとわたしの体を突き進んでいく。汗ばんだ身体が、シーツの上を滑って行くのを必死に留めながら、わたしは快楽に浮かされたようにぼうっと彼を見つめた。
いつもより険しそうな顔。気持ちがよさそうには、決して見えないのに。
「ああ、いい……」
思いつめたように、彼が苦しそうな声を上げる。
色気の籠った、温度のある声に、背筋がぞぞっと寒気立って、子宮に届きそうな勢いでねじこまれたそれをきゅんと締め付けてしまうのが自分でも分かった。腰に響くほどの律動に耐えきれず、彼の背中へと腕を回せば、答えるように彼がわらって、よりぐ、っと腰が埋められる。
彼の、オールバックに作られていた前髪はすでにくしゃりと崩れていて、いつもは晒されている額が髪の毛に覆われていた。髪形のせいでいくらか幼く見える彼の、微笑みが照れくさくて顔を逸らしていると、ずん、と一際強い打ちつけに、今度こそははっきりと喘いでしまう。
「ここ、か……」
「…………あ……」
「恥ずかしがるな、……いや、煽っているのか?」
挑発的な笑みと台詞に、不覚にも心臓が跳ねてしまう。


「……きもち、良い……です」
先ほどから繰り返していたであろう浅い呼吸の、すうすう、という小さな音が漸くわたし自身の耳に呼応した。その感覚に押されて、うわごとのように言葉が漏れて、直後、はっとなり、恥ずかしくて、ぎゅう……と目を瞑ってしまう。けれども、当たり前にわたしのそんなちっぽけな行動を見ていたのだろう、確かな熱を真ん中に感じさせながら、彼がくすりと笑う気配。
まもなくして、きつく閉じられた瞼にキスが落とされる。
「ああ……俺もだ」
噛みしめるみたいに呟かれた言葉。
わたしが瞼を開くと、そこにはただの男の人が居た。厚くほってりとした唇をゆるく引き上げて、崩れてしまった髪形を気にするそぶりも見せない──わたしの知る「堂島会長」でも「東城会六代目」でもない、堂島大吾という男の人が。
刹那、控え目に動いていた腰の打ちつけが、途端に激しくなる。
次々に襲いかかる快楽に、何も考えられなくなって、言葉も、表情も、すっかり窺えなくなってしまった。
彼の先端がわたしの奥底を引っ掻くたびに、自分でも聞いたことのないような声が漏れて、そしてそのたびに彼が嬉しそうに呟くのだ。


 “好きだ”


視線で、言葉で、行動で、わたしは彼に殺されてしまうのかと思った。
こんなに幸せでいいのか──と。
(大吾さん……)


「大吾さん……ん、……」
腰がしなって、一瞬、身体ごと布団から浮いたような感覚。
頭も真っ白になって、ばくばくと鳴り響いているのが上半身か下半身かさえも分からず、ぴんと伸びた足の指を丸めるようにして、わたしは必死に何かに耐えていた。ふわふわとまどろんで、しばらく何も考えられないような、幸福と喪失の合間にいるような感覚。
そんな感覚に犯される頭のなかで、彼の名前を何度も呼べば、口からも出て行ってしまっていたらしい。わたしに少し遅れて、呻くような、苦しげな、言葉にならない声のあと。どくりと一際存在感を増したそれが、やや怠慢に引き抜かれる。遅れて飛び出した潤滑油が、わたしの内ももやくしゃくしゃになったシーツを濡らしていく。
「……
「…………はい」
「…………
彼は、確かめるように数度わたしの名前を呼ぶと、にこやかに笑った。
(わたしも、同じ気持ちです。)
心の中で、ひっそりと、一人呟く。
いまは、それだけで、すべて伝わるような気がしたから。






*






二人とも、すでに入浴したとは思えないほどに乱れていたから、余韻をそこそこに、どちらからともなくお風呂に入りなおそうという提案が出された。
堂島会長の部屋には一人で入るには大きい立派な部屋風呂がついていて、景観を眺められる露天の作りになっていたから、せっかくならばそちらに入ろうということになったのだけれど、先ほど、彼の下で散々恥ずかしい姿を晒していたというのに、中々どうしてか、一歩が踏み出せない。
ガラス戸を一枚隔てた先で、少し前に準備を済ませお風呂へと向かった彼の肌色が見え、その場で佇んでしまう。

湯の蒸気に潤されたのか、少しだけ、普段より籠った彼の、せかすような声。
「……大吾さん」
「早く来たらどうだ。おまえと、この景色が見たい」
「…………いま行きます」
名前を呼び返せば、入ることを促されて。意を決して扉を開け足を踏み入れれば、ほんのりと香る乳白色を思わせる匂いと、海の匂い。
扉越しではは分からなかったけれど、彼はこちらに背を向けるようにして湯に浸かっており、どうやら外を眺めているようだった。ざわざわと静かな音を立てる海と、星の散らばる空に釘付けになっている彼に、見られていないのだということに安心して、先とは裏腹に進む足が速まる。


……ざぷん。
入浴剤でも入れてくれていたのだろうか、右足から、白く濁った湯に浸かり彼の隣へ身体を沈ませれば、ようやく景色を眺めていた視線が横に流れ、わたしに向けられた。そこで初めて、見ないように、と気をつかってくれたのだと気がついて、へらりとだらしなく笑ってしまう。
「……綺麗だな」
「…………ええ」
わたしから、再び外へと戻っていた視線に誘われるようにして同じ景色を見れば、穏やかな波の流れに思わず目を細めてしまう。
暗がりの海に、空を彩る星の光が反射して、波打つ度にそれが伸び、一筋の光のように道を作る。それが、何本も何本も、縦や斜めに描かれて、そこだけがまるで別世界のように思えて、ため息のような深い呼吸をもらしてしまえば、いつの間にかまたわたしを見ていた彼がくすりと笑って、ちゃぷり……と湯から出した右手で顔を覆う。
その手のひらに隠された口元が、何かを言いたそうに浅く閉じたり開いたりしているのを見ていると、なんだかこちらまでもどかしい気持ちになってくる。
何を言うのだろう──そう思いながら見つめていると、彼の顔を覆っていたその大きな手が、瞳から口元までを撫でつけて、またちゃぷりと湯に沈められた。僅かな水分を吸った肌が、ちらちらと光って、先ほど何かを言い迷っていたとは思えないほど、はっきりとした動きで彼の唇が言葉を紡いだ。


「…………今度は、ふたりで来ような」
「……はい」


“ふたりで……”
吐息混じりに、当たり前のように呟かれた言葉に、夢心地だった私の頭が引っ張られる。
次があるという約束が、たまらなく嬉しくて、ぽつりと。
「いま、わたし。凄く幸せです……」
俯いて、二人の呼吸で起こる湯の波紋を見つめるフリをして呟けば、
「ああ……。本当に。夢……じゃないよな」
鋭さのほんのりと浮かんだ瞳を伏せて、彼が頷くから。


……これからわたしは「堂島会長」を自分の日常のどこで見かけても、いまこの時と共にする「彼」ことを思い出してしまうのだろう思った。わたしと仕事の話をしているときも、六代目として部下の世話をしているときも、どこか重々しくて、手の届きそうにない雰囲気を持ち合わせているというのに。それでも、これからのわたしは、その雰囲気や姿の端々に今日のことを思い出して、きっと馬鹿みたいに浮かれて、彼に呆れた顔で咎められるまでだらしなくにやけてしまうのだろうと思った。
それほどに、いまこの時が幸せで……
彼もそう思ってくれていることが、何より代えがたくて……。


こっそりと距離を詰めて、彼の肌に寄り添う。
ぴくりと僅かに震えた彼の身体。少し遅れて、私の肩に回された太い腕。
傍らに、その確かな熱を感じながら、わたしはまた景色を眺めると、このときがずっと続けばいいのにと、思い願って目を閉じた。






あとがき