『以上のことを踏まえ、“男女間に友情は成立しない”という結果となりました』 テレビに映るテンションの高い女子アナの声がお茶の間に響き渡る。わたしは即座にいたたまれない雰囲気に包まれたことを実感した。 傍らで大吾さんはあぐらを掻いてだるそうにテレビを眺めていた。 それまでどこかぼんやりしているように見えたけれど、そっといま横顔を伺うと、微かに眉を寄せている。 「………男女に友情、あるよねぇ」 言ったあとわれながらしまったと思った。 なぜ上ずった声で、こんなことを言ってしまったのだろう。 「さあな」 と大吾さんは、気だるげな声を漏らす。 微かに身じろぎしたことで、黒いTシャツの胸の、重そうなシルバーの十字架が揺れる。 いつも不機嫌そうな大吾さん。 わたしといるときも、キャバクラに出入りしているときも、外で喧嘩して飲んだくれているときも、ずっと同じ顔をしてる。 「人それぞれなんじゃねぇのか」 至極まっとうな言葉に、わたしは肯いた。 そう、そのとおりだ。そのとおりなのだけども。 「おい、それよりそろそろ用意しねぇと間にあわなくなるぞ」 「余裕で間にあうよ。やっぱり浴衣やめて、この恰好で行くし」 花火の時間まであと一時間もある。大吾さんのいう穴場とやらまで、歩いて十分……まだまだ急ぐ必要はない。 わたしの普段着をじろっと見て、大吾さんは少し黙っていた。 「……。なんだよ、浴衣、着るんじゃなかったのか」 「あ、うん。なんかめんどくさくって。」 「……。」 明らかに顔をひそめる彼に、わたしは無言の圧力を感じて思わず怯んだ。 心底がっかりしたような顔にとまどうけれど、でも……今年は女友だちとのお祭ですでに一度着たし……め、めんどくさいんだもん……気合入りまくりみたいで恥ずかしいし……。 なんていうことをふわふわ考えて、やっぱり変だよ、と思う。 わたしと大吾さんの関係って。 もし彼が、別の付き合い長い男友だちなら、わたしもこんな言い訳がましいこと考えず好きなように振る舞っていただろうし、相手もわたしになにも要求してこないはずだ。 だけど決して口説いてくるわけじゃないし……いまだって家にふたりきりだけど、何かが起きるわけではない。 ただ不意に舞い降りる沈黙が、友だち同士では起こりえない重苦しい性質をしている。 それだけのことだが、決定的なことでもある。 「大吾さんこそ浴衣着てくればいいのに。きっと似合うよ」 「……」 「自分で着付けとかできるでしょ?今度は着て見せてよね」 「……気が、向いたらな」 「うん……」 「……」 汗をかいた麦茶のコップに手を伸ばして、彼が一口飲みこむ。くるみのような喉仏がころりと一度動く。骨格ががっしりしていて男性的なのに、どこか線が細い。Tシャツ姿の肉のないしなやかな上半身と、やわらかそうなたれ目の二重目蓋が、かっこいいなと思う。 ぼんやり眺めていると、目と目があった。 ぎく、とする。 「なんだよ」 「ううん、べつに……」 うつむいて、目を逸らす。わたしは、話題を捜すために必死だった。なんだか、雰囲気がこわくて。 「そういえば……ねえ、先週の花火大会も行った?」 「いや。おまえは行ってきたのか」 「うん、行ってきた。すごい人だった。浴衣だったから息苦しいし、人ごみで気絶しそうで、花火もよくわかんなかったな」 「相変わらず祭好きなんだな」 ことん、とコップをテーブルに置いて、大吾さんがその手で頬杖をつく。 彼が黙り込んだから、それでこの話は終わったのだと思った。 「……男と、行ったのか?」 「へっ?」 「……」 「え、あ……ううん。いつも言ってる、親友の……」 「……そうか」 そう言った彼が苦笑いを浮かべたので、わたしはすこし赤くなった。 ──“男女間に友情は……” ううん、そんなこと、意識したら、だめ。 変な態度になってしまうだけ。 「あのさ、向こうでなんか、食べたいね。わたし、ちょっとお腹空いちゃった」 「そうか。ならすこし早めに出たほうがいいな」 「うん。十五分くらい早めにで出よっか?」 「なあ」 「ん?」 自分のコップに手を伸ばして、麦茶を口に含むと、溶けた氷の水の味がした。 「浴衣、着ろよ」 ごくり。 と、麦茶を、驚いた喉元が嚥下する。 大吾さんが、いつになく茶色い瞳で見つめてくる。 麦茶を飲んだばかりなのに、体温がじわ、と上がるのを感じた。 「でも……」 でも。……言葉が続かない。わたしは目を落ち着きなく辺りにさ迷わせて、大吾さんの視線に意識を奪われないよう、こっそりと呼吸を止めた。 だって……着ろって言われて着たら、なんだか、友だち同士じゃ、なくなるみたいで……。 本当はすこし、着てみたい、着ようかな、と思ってる。 先週着たばかりの浴衣は、洗って和ハンガーに掛けたままだし、下駄も巾着も、髪飾りも押入れではなくすぐ取り出せるところに置いている。 本当は、さっき大吾さんが来るまで、迷っていた。着ようかどうしようか。 そしていまもまだ、迷っている。 「いまから着たら、花火遅刻するかも」 「出店は間に合わないかもしれねぇな」 「あの……浴衣、好きなの?」 「べつにそういうわけじゃねぇ」 と彼は、立てた片膝の上で拳を作った。 「……着ろよ、見たいんだ」 ため息交じりの掠れた声。弱ったふうな眼差し。つい、見とれてしまう。 「う、うん……。わかった……」 思わずつられて肯いてしまい、はっとする。 簡単に了承してしまったが、大急ぎで着付けて、暑苦しさと戦いながら涼しい顔をしていなければならない。 だけど大吾さんの無愛想な顔の中に、微笑のようなやわらかさが浮かんでいて……頑張ろう、という気持になった。 * 「歩けるか」 「うん、大丈夫」 がやがや、ざわざわ。 むっとする人いきれを抜け、公園を横切って、木々の暗がりの中を歩いていく。穴場というだけあって、メイン会場の波止場の混雑を思い返せば、夜のひんやりした空気が心地よい。 等間隔に植えられた欅の木々と、それぞれ距離をとって陣取っているごく少数の人たちのシルエットが、暗闇に影絵のように浮かんでいる。 水辺の音がする。ざわざわと波が粟立つ音。 やわらかな下草と、太い欅の根のでこぼこに下駄を履いた足を取られると、大吾さんが手首を掴んで助けてくれた。 その手は大きくて、乾いていて、骨と血管の感触がして……わたしの手とは全く性質が違っている。 「ここでいいだろ」 「うん。もう始まるね。間に合ってよかった!」 海沿いの、枝と枝の差し交す陰。大吾さんは、頭に枝がかかって、それを鬱陶しそうに手で払った。 潮をはらんだ海風が、その手触りと重みをもってわたしたちの顔を撫でていく。 花火が打ちあがるアナウンスが、波止場のほうから響いてくる。外国人が騒いでいるらしく、遠くから聞き取れない外国語の嬌声のかけらが、ここにも届いた。その異常なノリに圧倒されていたけれど、やがて示し合わせたようにぴたりと静寂に包まれる。 ひゅう、と、やかんのお湯が沸くときのような音が、夜空を割るように響いた。 ドォン、と心臓に振動を与えるほどの大きな音と共に、空一面が金色に包まれる。 バラバラバラ……、花火が砕け、名残の光が、垂れ幕のように水面に落ちていった。 それを皮切りに、次々と小ぶりの花火が同時に連発されていく。 体に響きすぎるその音は、炭酸を一気飲みしたみたいに、痛いのにどこか爽快な気すらした。 「すごいね!すごくきれい!」 大きな声でそう言いながら、大吾さんを見ると、目があった。 大吾さんは、わたしを見下ろしていた。 花火を見ないで、わたしを見ていたらしい。 どこかぼんやりしているような、表情のない顔をしていた。 「どうしたの!?」 「………」 声を張り上げるわたしを見つめたまま、彼がなにか言う。 でもまったく聞き取れず、耳をよせて「え!?」と促すと、彼は苦笑いした。 「聞こえないよ!」 ひゅう…… ドォン! バラバラバラ…… 鮮烈な光がシャワーのように夜空を照らし、真昼以上に明るい。 金色と、白……そして絶えず雲のようにただよう煙。 それがどんなに幻想的でも、大吾さんは、花火ではなくてずっとわたしを見下ろしている。 いつもはすこしこわそうな、目つきの悪い瞳が、いま、わたしを見つめながら、花火の光を湛えている。 それは、普段よりも大きくて、それでいてまるで、感情が籠められているようで…… 不意にわたしは、きょうのわたしと彼が、いつもとは違うことを実感した。 わたしは浴衣を着ているし、大吾さんはわたしと花火を見に来ている。 そしていつもはあまり目を合わせてくれない彼が、わたしを見つめて、くちびるを開いて、なにか言った。 ひゅう…… ドォン! バラバラバラ…… 彼の言葉はやはり花火に掻き消されたけれど、 くちびるの動きで理解した。 「きれいだな」 ──“男女間に友情は……” ──“男女間に友情は成立しない” アナウンサーの声、あの緊張感を思い浮かべたとき、夏の温度を宿した大きな手が、ふわりとわたしの体を抱き寄せる。 花火が打ちあがる衝撃と、浴衣ごしに彼の鼓動が伝わってきて、内側にうっすらと汗をかいた。 頭をかがめた大吾さんのくちびるが、そっと近づいてくる。 ──もう友だちには戻れない。 その瞬間、背伸びをしながら、そう実感した。 |