がやがやと音が聞こえる。客引きと、格子窓から漏れる艶やかな嬌声と、自衛隊と東城会の人たちの怒声。水の音。暗闇ですすり泣く声。それらは一緒くたになって、地の底から湧いてくるようだ。わたしは膝に頬を付けて、坐りこんだまま長いことじっとしていた。 神室町ヒルズから共に賽の河原まで逃げ延びてきた連帯感からか、避難してきたわたしたち……ヤクザでも賽の河原の住民でもない……この身の置き所のない部外者であるわたしたちは、一同が寄り添って体を休めていた。疲れ果て、言葉も失ったわたしたちに、賽の河原の活性はますます別の世界の出来事のように見えた。 ふと、わたしは、顔を上げて立ち上がった。 先ほどまでは誰かが話したり、泣いたりしている気配がしたが、いまは避難民の上に穏やかな静寂が広がっている。 そっと暗闇を抜け、扉を開けて外に出た。 華やかなピンク色の照明、同色の絨毯、赤い見世から伸びる白い手……着物風のミニドレスを着た若い女性が行き来し、自衛隊員たちが立ちながらパンを食べて談笑している。大吾さんの部下が足早に通りすぎていくのが見えた。 この場所は、きっとゾンビが侵入してきても、しばらくはこうなのだろうとわたしは思った。何ひとつ変わらず働く人たちに、意志や感情を毅然とした職務への忠実さで封じ込めている、そんな気高さを感じた。 ……わたしはだめだ。もう、なにがなんだか、よくわかっていない。 ふらふらと突き当りの一番大きな建物に向かって歩いていくと、地響きのような騒音はより激しさを増した。扉の向こうで、東城会の構成員たちがバタバタと走り回っていた。 「さん。会長にご用ですか」 ひとりにそう声を掛けられて肯くと、奥をたどった先にある部屋に案内された。 なんとなく大吾さんのそばにいたい、と思っただけで、積極的に会おうとは思っていなかっただけに、こうスムーズにいくとなんとなく戸惑ってしまう。 扉をノックすると、「入れ」という大吾さんの声が聞こえてきた。 わたしが扉を開けると、部下がやって来ると思っていたらしく、彼は意外そうに少し目を大きくさせた。 「さん……」 そこは七畳ほどの密室で、ソファとテーブルが設えてあるが、それ以外になにもなく、何の意図で使用されているのかいまいちよくわからない。彼はソファに坐りながら、となりに来るよう促した。 「眠れませんか」 「はい。なんとなくふらふら来てしまいました」 「そうですか。俺もいま、休憩を取っているところです。どうぞ、ゆっくりしていってください」 彼の足元、すぐ手の伸ばせるところに、ハンティングショットガンが立てかけられている。隣に腰を下ろすと、他人の体温と、微かなたばこの匂いを感じ取った。 「生存者たちは?何か、困っている者はありませんか」 「みなさん、いまはお休みになっています」 「そうか……」 彼は小さく息をついて、肯いた。彼こそ、眠れなさそうな顔をしていた。頬はやつれ、涙袋の下にくまがくっきりと刻まれた顔は、だが、目と口元に強靭な意識を感じさせる。彼が気を張っていて、すぐにでも戦いに行ける状態であることが、見て取れた。 「生存者のカタギたちの世話を引き受けてくれて、ありがとう。お蔭で、トラブルもなく夜を明かせそうだ」 なめらかな聞き心地のよい声が、すとんと体の中に落ちてくる。 「お礼なんて、そんな……大吾さんこそ助けてくださって、ありがとうございます」 優しい人だな。 そう思った。 その優しさは男性的な力強いものだ。彼はその強さでわたしたちを助けてくれた。そして体を張って闘ってくれている。優しい人はたくさんいるけれど、大吾さんの優しさは、彼のように強さと理性を兼ね備えていなければできないものだ。 大吾さんは優しいんですね、そう言おうとしたら、彼が先に 「さんは優しいですね」 と目を細めた。 「え?」 「他人の世話ばかりしていたから、ひとりになると……かえって気が休まらないんでしょう」 「………」 「お人好しというか、なんというか……」 そう言って彼はくちびるを閉ざした。 その誉め言葉が思いがけないものだったからなのか、大吾さんが普段どおりに優しく笑ったからなのか、自分でもどういう仕組みなのかわからないけれど……目頭がじんじんと熱を持っていることに気が付いた。 なんだか、泣きそうだった。なぜだろう、胸がいっぱいで。 「………」 黙り込むわたしが訝しかったのか、大吾さんがこちらを一瞥する。 あ、やばい……。 いつのまにかじわりと滲んで、まばたきすると落涙しそうだった。大吾さんが見ているし、体が熱いし、頭の中がぴりぴりと痺れているし。 あ……。 ぽとりと熱い涙が膝に散った。一滴で済むかと思いきや、涙が後に控えていて、次から次へと新しい滴が零れてくる。俯いているため、大吾さんがどんな顔をしているのかは見えない。だが彼が微かに驚きをにじませているのではないか、と、早く泣き止まねばと焦る頭のどこかで考えていた。 「す……すみません、なんか……」 小さく鼻をすすると、大仰な恥ずかしい音が響き渡る。 これは、“目にゴミが入って……”というレベルの涙ではないし、どう言い訳したものだか見当もつかない。客観的に見て己が号泣していることを悟り、内心ため息をついた。どうして、心は冷静なのに、体は別々の反応を示すのだろう。……どうして、思った通りの反応をすることができないのだろう……。 元気に笑っている姿を見せるべきだ。大吾さんは疲れている。こんなことで心配させたくない。いまさら言い訳をしたところで、よけい心もとない印象を与えるだけだろう。 元気に笑って見せなくちゃ。 お願いだから泣き止んで、そう強く念じたとき、俯いた頭上で、 低く、なめらかな声が 「さん」 と囁いた。 「!」 強い力でぐいっと肩を包み込まれた。 目を白黒させながらわたしは、身動き取れないながらも、俯きっぱなしだった顔を上げる。 大吾さんの、しかめっ面のような、固く閉ざしたくちびるの顎が見えた。 ……それを見て、数秒遅れてからようやく事態を飲み込むことができた。 わたしは大吾さんに抱き寄せられているのだ。 な、なんで……? 慌てて、あの、と声を発しようとしたとき、先に彼が、くちびるの奥から、思わしげに、吐息交じりに言った。 「この状況でそうなるのは当然のことです」 「……」 「ずいぶん無理をさせました。……だがありがとう」 「……」 ぎゅう、と肩を掴む手が熱い。彼の腕は筋張っていて硬く、その中にいるわたしは自分の体がとても柔軟にしないでいることを知った。 一番体温を発しているのは、彼の首筋だった。スーツを纏った彼の腕と胸ではなく、彼の首筋は直にわたしの頬の肌に触れているのだ。まるで、布団の中にいるかのようだった。とても気持ち良くて、いい匂いがした。そして、呼吸をしたあと鼻腔に残るたばこの匂いも、わたしには心地よく感じられた。 彼の印象を具現化したかのような匂いだった。 大吾さん……… 胸が嗚咽しそうに締め付けられて、苦しくなる。目線を上げると、彼の顔がすぐそこにあり、その眉間を寄せた険しい影の下に、遠くを見るような瞳があった。なめらかな頬やこめかみに、淡いそばかすのようなものが見える。 大吾さん。 この感覚はときめきというよりももっと重くて、もっと苦しいものだ。 ちょうど失恋に似ているような気がする。 抱き寄せられた瞬間、頭が真っ白になったのは、嬉しかったから。 それなのに、大吾さんがわたしを抱きしめてくれている理由は、わたしと同じではない。 これが彼の慰め方なのだ。 力強くて、身動きが取れないけれど、あたたかくて……。 こうやって、彼が抱き寄せて、悲しみを論理的に分解しようと試みているのは、わたしを好きだからではない。そう、わたしは思った。 ……ああ、わたし、…… 彼の温度も、匂いも、耳のそばに感じる息遣いも、すべてがわたしを傷つけるような気がした。 どうして、こんなときに気付いてしまうのだろう。 もしかしたら、もうすぐみんな、死んでしまうのかもしれないのに。 わたしも、大吾さんも、みんな、明日をも知れぬ身なのだ。 そうしてわたしが死んでしまったら、わたしの気持なんて、誰も知らないまま、消えてなくなってしまう。こうして抱きしめられている感覚、嬉しいような、苦しいような、思ったこと、伝えたいこと、すべてが、跡形もなく無くなって、目に見えなくなって、まるで最初から存在しなかったみたいに、なる。 「………」 ぐす、と鼻をすすって、目を閉じる。涙がこぼれた。また一粒、ぽとり、ぽとりと落ちていく。 涙を吸って重い睫毛を持ち上げると、さっきまでなにか考えごとをしていた彼の瞳が、ゆっくりとわたしに向けられて、同じタイミングで目があった。 暗い瞳は、ともすれば不機嫌そうにも見えるが、彼の人となりを知っているわたしからすれば、彼がわたしのことを心配しているのだとはっきりとわかる。 一度すばやくまばたきをして、それでも大吾さんとわたしは見つめ合っていた。 わたしの目からは箍が外れたように涙が溢れつづけていて、だんだん、泣き止もうという意思もなくなった。涙腺が疲れ果てたときに、自然と涙も枯れるだろう。 この優しさに縋ってはいけない。 迷惑をかけてはいけない。 だって、わたしだけの優しさではないのだから。 この優しさをひとりじめしてはいけない。 「怖くて、とか、混乱して、泣いてるわけじゃないんです」 笑顔をつくりながらそう言うが、鼻声で、体も少し震えている。腕の力をゆるめて、彼はわたしの様子をつぶさに観察している。 「すみませんご心配お掛けして。わたしほんと大丈夫ですから」 だから……。 腕の中から離れようと体をよじると、するりと彼の腕は解かれた。 そして、もう一度、強く抱き寄せられた。 「さん」 その、真摯な声。落ち着いて、冷静で、物憂げで、それなのに眼差しが微かにけわしい。 ほのかに感じていたたばこの匂いが、体の中に入り込んでくる。 さっきよりもずっと至近距離にある瞳と目があって、時が止まったような気がした。 喋ってはいけない。 声を出してはいけない。 眼もそらさず、ずっと彼の真面目な瞳を見ていると、大吾さん、この人にわたしの気持が伝わるような気が、した。 「会長」 びくり。 こつこつとノックの音が響きわたる。 大吾さんはわたしを放して、ハンティングショットガンを掴んでソファから立ち上がった。 「どうした」 「会長、厄介なことが……。バリケードが崩れそうです」 「わかった、すぐに向かおう」 大吾さんが扉を開けると、すでにそこには武装状態の彼の部下たちが並んでいた。 大吾さんは一度、わたしに苦笑いして見せた。それは一瞬のことで、彼の表情がすぐに戦いに臨むものへと、きりっと張り詰めたものへ切り替えられる。 「行ってくる」 素っ気ないほど短く言う大吾さん。わたしは、ソファから立ち上がり、「お気をつけて」と急いで言うだけで必死だった。その声がちゃんと聞こえたのかどうなのかはわからない。冷たい顔をした彼はもう、わたしに振り返らなかった。 大吾さんは素早く部屋を出て、走る足音を響かせながら姿を消した。 それなのに、わたしを抱き寄せた体温は、いつまでも素肌に染みついたように残されていた。 * 武装解除の伝達が広がり、わたしたちが地上に無事這い上がってこれたのは、その翌日だった。昼食を賽の河原でとり、体力を万全に整えてから、前を東城会組員、後ろを自衛隊員に守ってもらいつつ、ひとりずつマンホールの青空に向かって上っていく。 カタギの生存者の一番最後に残っていたわたしが地上から顔を出すと、半分曇った薄い水色の空が、どんな晴天よりも眩しく感じられた。 思わず目を細めると、わたしのまえに黒い影が落ちてきた。 それは、わたしに向かって手を差し出している大吾さんの影だった。 逆光を浴びて、どんな顔をしているのかは見えない。その手を取ると、ぐいっと持ち上げられて、容易に地上に出ることができた。 出てきた場所は意外にも児童公園だった。よく見なれた場所柄だが、まさかこの下にあんな歓楽街があったとはと今更ながらに驚いてしまう。 助かったことが嬉しく、それなのに信じられず、まだ自分の顔が強張っているのがわかる。 「ありがとうございます」 助け起こしてくれたことも。守ってくれたことも。優しいと、言ってくれたことも。 深々とお辞儀して顔を上げると、大吾さんは「いや」と言い、一度静かにかぶりを振った。 「皆無事でよかった」 「本当に。東城会の皆さんのお蔭です。なんてお礼言えばいいか……」 「礼なら桐生さんに」と彼は控えめに頬笑んだ。そして辺りを一瞥し、やんわりと眉をひそめた。 「しばらく復旧の関係で慌ただしくなりそうだ」 煤けたビル。灰色の煙。ひっくり返った車。そこらじゅうに落ちている、火炎瓶や手榴弾。 こうなるまでに繰り広げられた戦乱を想像したあと、今後の復旧過程を想像する。多分、ほとんど綺麗に元に戻るだろう。そして元に戻らないものも……。おそらくはわたし自身までもが、きのうの恐怖を、記憶の中で風化させてしまうに違いなかった。 「大吾さんは、ゆうべ以上にお忙しくなりそうですね」 「そうなるだろう。さて、どこから着手すべきだか……」 見通しを立てているのか、腕を組んで考え込むその端正な横顔に、わたしは微笑する。 数秒置いて……不意に、視線に気づいたらしく彼が、ふとわたしに振り返った。 「外はマスコミが詰めかけています。捕まると厄介です。人数分車を手配してありますから、そいつで東都大病院に向かいましょう」 「あ、はい。至れり尽くせりなんですね……」 「はは……きょうくらいは。それに、さんには俺のほうこそ世話になった」 「え?そうでしたっけ?」 むしろ、足手まといでしかなかったような……。 大吾さんはお世辞を言うタイプにも見えないし。本気で疑問に思っていると、わたしの顔がおもしろかったのか彼は低く笑みをふくませた。 「そんなに、難しい話ではありませんよ」 「そうですか?」 「ええ。ただ、ゆうべ、会えたことが嬉しかった」 さらりと普通に、思いがけないことを言われて、わたしは少し赤くなる。 放心していたり、泣き出したり、抱きしめられたり……なんて恥ずかしい夜だったことだろう。だがあの一連の流れでようやく、気付いたことがある。 大吾さん。 わたし、あなたのことが好きです。 ひそかに胸につぶやくと、たしかな重力を持ち、一滴の波紋となる。 ひたひたに気持が満たされて、ゆうべの涙のように溢れて、零れ落ちてしまいそうだ。 |